写真っていいなぁ、もう一度写真を撮ってみようと 思い立ったのは、
2001年9月、出張に、何の気なく古いNikonのカメラを持ち出し、
ベルゲンの街でカップルの姿をスナップしたときから。
それからは、撮っては考え、考えては撮るの繰り返し。
目の前の現実は、写真に撮られるため存在わけでも、
記録し保存するために存在するわけでもない。
しかし、人は、その眼前の光景を、切り取り、記録する。
記録されたものはシンボル・仮想現実(1960年代には共同幻想なる言葉で表現したと思う)となる。
人は、その写真を見/読み、心の中でその場を再構築/追確認する。
シンボル(仮想のもの)を操り、現実を再構築する(共同幻想)能力を獲得したことは、
人類の大きなアドバンテージだったろう。
乾季の時、どこへ行き、どこを掘れば水があるか、
いつの時期 どんな獲物が現れるか、
何を利用し、どのように使えば、飲むかことができるかは、狩りを成功に導けるか、
洞窟に描いた画や言葉(仮想現実/共同幻想)に喚起され伝わっていく。
カメラを構え、シャッターを切る。
眼前の光景は、記録されるためにも、
写真に撮られるために存在しているわけでもないのに、
人はシャッターを押す。
押した瞬間、撮った人の 眼前の光景に対する態度が、はっきりする。
なにに関心をもち、どう切り取ったかは、シャッターを押した人の感性、知性に由来しているから。
写すのも大事だが、それを読み解く(評価する)見る人の感性、知性のほうが、もっと重要だろうと思う。
仮想現実を読み解かないと、写真は単に一枚の紙に過ぎず、そのまま屑籠行きだろう。
じっと 写真を見て、読み解いていく。(評価していく)
車載カメラで撮ったような写真もあれば、
被写体のモデルに迎合している写真も、
どうだ、旨いだろうと自慢げな写真も、
こんな素敵なところへ行ってきました、
こんな素敵な人に会いましたと、
心から喜んでいるのが伝わる写真も、
見ていると、徐々に、少しずつだが、撮っている人の姿、考え、思い、感性、知性を 感じるようになる。
共感したり、なんだこの人はと反発したり。
小生の写真の原点は やはり ベルゲンで撮ったカップルの後姿だと思う。
人物に近づき、その人の顔までハッキリ判るようスナップするのは・・・・
盗撮しているようで、やはり心理的にストップがかかる。
その場の雰囲気が 写しこまれていればいいと・・・自制する。

雷門前の浅草文化観光センターで撮影した一枚。
おそらく外国の方だろう。
ジオラマを仲良く見ている。
カメラを構えても気づかない。
暗いので、絞りはf:2に開けている。
二人の姿にピントを合わせるのが、普通だが、
それでは、盗撮だろう、何を撮りたいか?と一瞬自問する。
この場の雰囲気・・・・
二人の視線の先に焦点を合わせていた。
(勿論 ほとんど秒撮ですが)
二人の顔にピントを合わせたほうが、この写真を見た人の評価は高いと思う。
しかし、小生は、こんな撮り方しかできない。
小生にとっては 会心のいい写真。
この瞬間に出会えたお二人に感謝しています。
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- 2017/01/16(月) 14:20:08|
- 読み解く写真、心に残る写真を・・・
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