大崎駅近くを流れる目黒川の沿いに、地区の記憶として居木という地名が残る。
むろん住所としてではない。
時々、そのあたりを 散歩する。

小学生の頃の記憶には高いビルの記憶はない。
当時、大崎で一番大きな企業は、明電舎だった。
同級生には、お父さんが明電舎に勤めている人が何人もいた。
まだ、ソニーは、それほど有名ではなかった。
それ以外、有名な企業は、三共製薬、日本ペイントくらいか?
勿論、印刷も盛んなので、大日本印刷、光村などの印刷工場もあった。

三共製薬は、数年前 第一製薬と合併し第一三共製薬となる。
それ以来、研究棟の工事が始まり、新しいビルができてきた。
右の橋げたは、東海道新幹線、その右下を湘南電車が走る。
目黒川添いの細い道も整備されてきた。
小学生の頃、工場横は舗装されていず、
細い道は、秘密の抜け道、冒険する気持ちでを歩くと、
目黒川へでる。
すると、工場からでる排水が、土管を伝わり、黄色い流れとなって目黒川へ落ちていた。
戦後の復興期、生産活動のためなら何でもありだったのだろう。
特に、大崎には 中小、零細企業も多い。
電気部品に電気メッキする会社もあった。
青酸化合物も捨てていたのだろう。
川は、黒く汚れ、魚は住めない川だった。
それでも、河口に近いので、油と磯の混ざった香りがしていた。
いまは、廃水処理設備が 完備しているので、
魚もすみ、オイル交じりの臭いもしないが、磯の香りもなくなってしまった。

居木橋から品川の宿場までの目黒川沿いには、嘗て、東海寺という大きな寺があった。
徳川氏が創建した寺で、上野の寛永寺と対をなしていた。
有事の時、兵士を集め、江戸の防衛をする城と設けられたものである。
寛永寺は 上野戦争で破壊、彰義隊の墓場に・・・ いまは公園に整備されたが、
東海寺の敷地は、明治以降、切り崩され、利用され、塔頭の一つが残されただけ。
時代の記憶は薄れていく。
飛び地になった墓所へ上る。
中央の高いビル群は、大井町。左に東海道線と京浜東北線の鉄路が伸びる。
ガードの下を 山の手通りと目黒川が流れる。
川沿い、鉄路の左にあるのが日本ペイントの工場、鉄路の右、中央は第一三共製薬、大きな樹の後ろに、下神明近くにある品川区役所が写っていた。
工事中の敷地は、JRの変電所設備を建設中とのことだった。(ここも、もとは東海寺の敷地内だろう。)

墓地はそれほど広いものではないが、江戸時代の著名人、沢庵和尚と賀茂真淵の墓所がある。
明治時代、鉄道関係で活躍した明治政府の役人の墓もあった。
まさか、墓の後ろを 新幹線が走っているとは・・・沢庵和尚も予想しなかったでしょう。
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- 2016/09/11(日) 21:52:44|
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