今年の桜は、不気味な桜、醜い桜、見向きもされない桜を・・・撮ってみたいものだと思っていた。
しかし、いつしか、普通の切り取り方、普通の構図になっていることに気づく。
たくさん撮っていると、段々、構図が決まってくる。
上手い人の写真を真似ていたり、無意識にも絵画で見た構図に近づいている。
ありきたりの写真は、もう撮りたくない・・・頭ではそう考えても、
気持ちの上では、やはり構図の整った写真のほうに、傾斜していく。
440カットの写真から、そんな いつも撮っている構図の写真を選んでみた。

この構図、小生の好みか、以前にも同じ狙いで撮っている。その時は28mmの広角レンズで切り取っている。
道の右半分に、シートを敷き花見の宴を楽しむ人がいたが、現在は禁止となり、寂しいお花見になってしまった。
通行の邪魔と、禁止になったのだろうが、同時に大事なことも失われていく。
確かに通行は便利、朝の清掃の負担は減り、ごみ処理も容易だ。
しかし、日本人にとってお花見は文化。利便性、効率化、管理のしやすさで 文化を損ねていいものか?
春が来た喜び、桜の下に円陣となり、飲食をともにし、三味線を奏で、踊り狂った。
娘らにとっては、最新のファッションを、見せびらかす絶好の機会でもあったようだ。
その伝統の楽しさが、目黒川では断ち切られてしまった。
歩いていても、お花見の楽しさを感じない。
ただ、黙々と歩き、時たま携帯電話を 空に向けるだけ。
あのざわつき感は たまらなく好かった。
シートを敷きお花見に狂ずる一団は、花見を花見たらしめる要素だったと気づく。

きれいな桜を撮ろうと人間の存在を感じさせないようにフレーミングしていた。
日本画風を意識しフレーミングしたところで、文化からは遮断されている。
やはり、つまらない写真。
腕に覚えのアマチュアカメラマンは、綺麗な桜を求めて、有名な桜の大木の下へ 出かけていく。
誰もがやること、やりたいこと。
しかし、大同小異の写真になる。誰かがすでに撮っている。
すでに、プロが撮っていたら、もうそれでいいではないか?
アマチュアが撮っても超えられない。
綺麗な桜を撮ることに、きゅうきゅうとして、大事なことを忘れてはいまいか?
撮りたいのは、「花見の精神」そのものだろう。
来年は、洗足池辺りを歩こうか?
あそこなら、お花見を楽しめるはず。

仰角で撮影・・・・始めたのは誰だったか? 当時は新たな視点の発見だったと思う。

これも、仰角で撮影。赤外線フィルム、R72フィルターを付けて撮影している。

日本人好みのフレーミングかも。 対角線、1/3とか・・・・

清掃工場の煙突との対比。

人の姿を入れないよう、そして雲の流れを意識してフレーミング。

これも 定番の構図になっている。縦位置にして水路(目黒川)の奥行きを表現してもいい。
写真を撮っていると、結局 構図の良し悪しが 作品のできに直結していることに気づく。
美術を志し、デッサンを重ねてきた人は、カメラを持って撮影しても、素晴らしい作品を作る。
「所詮、画家の写真、写真家の写真でない・・・・(なにも分かっていないなぁ)」
と半分 馬鹿にしたような口調で語る人がいるが、
美術を志し、若い時、デッサンを重ねた人の写真はうまい。
絵画や彫刻を勉強した人に カメラを持たせたら、上手な写真を撮るのは当たり前だと思う。
美に対する感度が、凡人より 鋭い。
もともと、カメラ・オブスキュアは画家の所有物だった。
構図を決めるための補助道具にすぎない。
それが、デジタルカメラにまで進歩し、誰もが失敗なく写真を写せるようになった。
機械音痴の人だって、ちゃんとした写真をとることができる。
美的感覚が、作品の質を決める。
デジタルになり、すごい写真家が出てくるのではないかと、密かに期待している。
「お花見の精神」そのものを捉える写真家が、きっと現れる。
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- 2016/04/23(土) 11:52:59|
- 桜
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