時代はデジタルだが、未だ白黒のフィルムで撮り続けている。
白黒フィルムに特化したコメントを備忘録として書いているので、
大部分の人にとっては、チンプンカンプン、なんの参考にもならないだろう。
ごく少数のもの好きが、時たま このブログを読みに来るのだろうと、思う。
コシナのBessaRシリーズ 売れなくなったので製造中止となった。
新品のフィルムカメラを未だ製造販売しているのは、ニコン、キャノン、それにライカに限られてきた。
しかも機種は少ない。昔からの顧客向け、ごく少数の物好き相手だろう。いつ製造中止がアナウンスされてもおかしくない。
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デジタルで撮らないわけではないが、撮ってみて、心の底から、面白いなぁと思えることはない。
それでも、写真倶楽部「彩游」に所属していたときは、デジタルカメラを使う機会があった。
退会してからは、めっきり減っている。簡単な撮影テストに持ち出す程度になってしまった。
八つ手の撮影テストに戸越公園へ行ったとき、梅が咲いているのに気づき撮影したもの。

八つ手を接写しようと、ミラーレス・デジタル Sony NEX-3に L-マウントアダプターを介し引き伸ばし機用EL-Nikkor 50mm F:4をつけて撮影していた。

引き伸ばし機のレンズだから、並のマクロレンズより解像度は高い。倍率も等倍以上。しかし、ピントの合っている範囲は極端に小さくなるので、奥行きのある接写では、マクロで撮ろうが、普通のレンズで接写しようが、あまり差は感じないだろう。
手持ちの撮影なので、液晶画面のピント合わせが難しい。三脚に固定すべきだろう。
しかし、そこがデジタルカメラの良いところ、内蔵のストロボを発光させ、手振れをなくし、何枚も撮影し、その中から後でピントの合ったものを選んでしまえばいい。結果オーライならいいというのがデジタルカメラなのだろうと思う。
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昨日、今年の桜は どうかなぁと思い、戸越公園へ調査に行く。
カメラは例によってSony NEX-3(これしか持っていない)。
レンズは、Lマウントアダプターを介し、PAM-Britar 105mm F:4.5を付けている。
トリオータータイプで、枚数が3枚と少ないので、実に切れがいい。
ただし収差は取りきれないので、2線ぼけを発生させやすい。
(トリオーターだ、二線ボケだ・・・など、今 デジタルで撮影している人には死語だろう。)

ようやく 老木の桜が咲き始めていた。残りの桜はまだ蕾の段階。
桜は撮り尽くされている。
撮りようがない・・・撮ってみると、誰かが撮ったであろう構図になっている。

背景の明るい部分をトーンカーブを調整し暗く落とすと、蕾の付けた枝が目障り(二線ボケ)に浮き出てくる。むしろ明るくし、消してしまったほうが、桜の花が浮き出す。

満開になれば、枝は花びらで隠れるだろうが、いまはまだ、咲きはじめたばかり。こんな構図になる。

広角レンズで撮る。望遠レンズで撮る。接写する。仰角でフレーミングする。俯瞰してフレーミングする。
背景(青空、水面、その場所の雰囲気、人、前ボケ、後ろボケ)に注意してフレーミングする。光の当たる方向を意識してフレーミングする。桜の名所に行って撮影する。
数限りない場面で、幾多の桜が撮影されてきた。
同じことの繰り返しにならないだろうか?
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今までになかった要素の見出し、新しい視点を写真にもたらしたら、創造的と称賛され、その写真はアートとなる。
シュールリアリズムの写真には(モホイ=ナジ、マンレイなど) 確かにその創造性があった。
ピクトリアリズム写真を完成させ、それを否定し、近代のスナップショットの道を示したスティーグリッツの写真も、芸術作品と認めていい。F:64グループの写真も一つの芸術運動だろう。サセックスの海岸で撮られた一連のヌード写真群、ビルブラントのパーステクティブの発見も、芸術(アート)と呼んでいいと思う。
しかし、写真は、レンズとカメラとフィルムで作られる。
目の前に対象物がなければ、写真は撮れない。
この制約があるので、1960年代には、ほぼ、新しい視点は撮りつくされてしまう。
しかし、過去の人の真似をしたのでは、模倣品。
いくら精緻に綺麗に撮れても真似は真似。芸術作品にはなりえない。
職人芸の工芸品の世界にとどまる。
そこで起きた最後の反乱?が、コンポラ写真運動だろう。
今思えば、いい写真が沢山撮られた時代。
アレ、ボケ、ブレの発見。
駄目な(時流乗るだけの)写真家もたくさんいたが、時代を見据えた写真家も沢山いた。
1970年代が日本写真の黄金時代だろう。
そのラストランナーになったのが、森山大道だとおもう。
いまでも、森山大道を真似た写真を撮る若い人が出てくるという。
しかし模倣は、模倣、評価されない。
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カレンダーの富士山の写真には、カメラマンの名前は記載されない。
新しい要素が何もないから。
写真が芸術というなら、新しい何か/今まで気づかなかった何かの発見が その写真になければならない。
それがなかったら、工芸品の世界にとどまることになる。
それは、職人の世界であって、芸術とは呼べない。
現在のプロのカメラマンは職人の域を越えられなくなっている。
特に、デジタルカメラになって その傾向が強くなったと感じる。
(話術の巧みな)レッスンプロは多くなったが、写真で勝負のトーナメントプロは少なくなったと感じる。
更に、そこから飛び出し、模倣を脱皮させた写真を撮る人は更に少なくなっている。
(いないわけではない、まだ、評価されないだけ。芸術家は亡くなってから評価されることが多い。)
「写真は 芸術です」と のたまう人の、芸術の定義、どんなものなのだろう。
小生の定義は 「今までになかった新しい視点の発見と創造(作って見せる)。そして、それを 見る人が感じ、評価し、確かに新しい何かが表現されていると認める 双方向の了解」と考えている。
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今年も桜を撮ることになるのだろう。
フィルム・カメラを抱え、桜の木の下を右往左往し、決まり切った写真を撮っている・・・そんな自分を想像しています。
もう数日で桜の季節になる。
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- 2016/03/25(金) 11:22:16|
- 桜
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