写真といっても 「真」を「写」しているわけではない。
PhotoGraph 光の画 「光画」と訳したほうが適正だろう。
光の原理・法則に従って、画像は生成し、記録される。
人間の恣意性が そこに付け入るスキはない。
3次元の世界を、2次元の平面に変換し、記録する。もうそこで、抽象的である。(現実そのものではあり得ない)
その2次元情報から、見る人は、己の想像力・知性・感性で、見たであろう現実世界のイメージを再度構築する。
だから、その2次元情報に、恣意的なやらせや、演出を入れてくれるな・・・というのがリアリズム/報道の写真ということになる。
一方、2次元情報に過ぎない写真は、単に映像の素材という考えも成り立つ。
写真を、素材として取扱い、恣意的に加工、演出し、己の感性を表現して何が悪い?
積極的に行うべきと考えるのが、芸術/宣伝/プロパガンダとしての写真ということになるのだろう。
昭和50年頃の写真雑誌を読むと、小声で「撮る写真」、「作る写真」などと 語られていた。
どうやら、木村伊兵衛などは、「撮る写真」。
森山大道は あの程度でも「作る写真」とみなされていたようだ。
暗室で格闘し、大胆な覆い焼きや焼きこみをしている。
ネガ上に残った銀塩粒子を 余すことなく/恣意的に利用する姿勢が「作る」と称されたのだろう。
大型ストロボを使った日中シンクロの作品もある。
覆い焼き、焼きこみ、そして日中シンクロのストロボ撮影は、作る写真と分類されるべきものか?
余りに大胆に、徹底的に使ったので、そう思われたのかもしれない。
今日では、「作る写真」の範疇には入らないだろう。
ストロボを使うにも、法則がある。その法則にしたがい、それを利用している。
小生も、時にストロボを利用する。
50年近く前、購入したストロボである。1台は、この前の撮影でついに機能しなくなった。
まだ、1台残っている。
古いカコ・ストロボで、ISO:400(当時はASA400と表記)でガイドナンバー60の、当時としては、素人が選択する最大の光量を持っていた。
光量は調整できないので、小さくしたいときは、紙や布を当てて調整。ガイドナンバーに従い絞り値を計算し、周りの状況を勘案し、補正する。経験を積まないと、いい写真は撮れない。撮影、成功か失敗かは、現像してみてからでないとわからない。
ストロボ撮影には、失敗はつきものだった。
秋の夕暮れを、ストロボ撮影してみた。
空の明るさと、ストロボの光量、どのタイミングでマッチするのか・・・・
失敗はつきもの、失敗データが集まれば、対策は立てられる。
Retro400Sフィルムを使い、絞りf:4 シャッター速度1/60秒に固定し、全てを撮影。

手前の樹までは10mくらい、f:6でストロボの光は届くはず。しかし、届いているのは中心付近、21mmの広角レンズなので、周辺部の光量は落ちている。
シャッター速度を1/30秒に下げれば、背景のディテールはもっとくっきりと出たかもしれない。

樹に近づいて、撮影。
幹がストロボの光に浮き出てくる。

10分後、空の光量が落ちてきた。
更に近づき、撮影。
近くの葉は、露光オーバーで白飽和している。しかし、遠くの木の葉までは光は届かない。
ネガの階調もこのコマが一番広かった。
見慣れた戸越公園の樹とは異質の 別の姿が写っていた。
これは、作った写真だろうか?
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- 2015/12/02(水) 11:12:23|
- 樹、草、花
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