昨日、晴れたので、珍しく午前中カメラを持って散歩した。

中央に見える黄色く色づいたのが、戸越公園の銀杏。
公園内には、銀杏はこれ一本しかないだろう。
フォトジェニックな樹です。
11月21日のブログには、戦前のLマウント・エルマーで撮影した、この銀杏の写真を載せました。

今回は、モノトーンフィルム(赤外)で撮影しています。
720nmカットできるR72フィルターを付けている。(R78フィルターでは、うまく撮影できなかったので)
レンズはコシナ製、SC-Skopar 21mm F:4のレンズにした。
マルチコーティングされた最新の切れの良いレンズです。
デジタルカラーは、見たときの印象に、かなり近い写真を撮ってくれる。
狙いと撮影結果との間に、大きな乖離はないだろう。
乖離があったとしても、その場で、背面の液晶画面で確認し、撮影条件を調整し、再度シャッターを切ればいいだけ。
デジタルは、綺麗に撮れてしまう。液晶画面で確認し、その通り頷いてしまう。
しかし、綺麗なカラー写真が撮れたと喜んでいる自分に、逆に薄っぺらさを感じてしまう。
こんなんじゃない・・・と呟いてみる。
なにか大切なものを忘れているのではという、居心地の悪さを感じている。
美しく、ありのままに撮れているのに、何が不満?

「一本銀杏」に近づき、デジタルで撮影。
銀杏は色づきはじめていた。見ていた印象に近い形で記録できている。
カラー・フィルムの時代なら、かなりの経験が必要だったけど、今はPモードで充分、カメラが撮ってくれる。
駄目でも、背面の液晶で確認し、何度でも撮り直しできる。
しかし、画像は余りに即物的かつ完璧なもの、圧倒されるだけで、見る人に、つけいる隙を与えない。
(一枚のデジタル写真、カメラの寄与率と撮影者の寄与率を考えたら、おそらくカメラの寄与率のほうが大きいだろう。)

何が不満?
デジタルカラーは 即物的なので 性分に合わないのだろうと思う。
デジタルになり、行きつくところまで来てしまったのだろうか?(作品に占める撮影者の寄与率は最小に近づいてきた)
写真は目の前のものをコピーするものと捉えたら、
デジタルカメラは、完成形に近い装置になった。
しかし、想像の翼を広げるべき隙間が見つからなくなってしまった。
写真の背後に広がっているものは、心の翼を広げないと、見えてこないと思っている。
本当に大切なものは、目に見えない。
それがデジタルでは 閉ざされているように感じてしまう。
モノトーンのフィルムは 不完全。
目の前をものを正確にコピーしようとしても、その能力はない。
白黒写真は色のデーターを持っていない。
その時点ですでに、抽象的な意味合いを持つ。
白黒写真は、不完全で抽象的。 だから、写真は見る人に、「写っているものは何か」と問いかけ、大切なものをほのめかす。
モノトーンの映像を、心の中に投射し、その本質は何かと 問い掛けることを強いる。
その問いかけに 答える知性・感性がない人には、モノトーン写真は、単に一枚の記録紙であり、記号に過ぎないだろう。
写す人と、見る人の、感性・知性のせめぎ合い、想像の翼が写真の中に飛び交う。
そんな ロマンチックな 気持ちがあるのだろう、小生は やはり、モノトーンフィルムで 写真を撮るほうを選んでいる。
一枚の写真、撮影者の寄与率を上げようと、使いにくい機械式カメラを使っている。
長巻フィルムを切り、マガジンに詰める。薬品を調合し、現像液を作る。
自分の裁量でフィルムを現像し、できたネガをスキャナーで取り込み、トーンカーブを調整し、画像をプリンターに打ち出す。
デジタルカラー写真と比べたら、画像のクオリティーは 低いかもしれない。
それでも、いいと 思っている。
眼に見えない、大切なものを「問いかける/ほのめかす」 それを許容する不完全さがあるから。
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- 2015/11/29(日) 21:02:02|
- 樹、草、花
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