今思い返しても、文系の科目、点数悪かったなぁと思う。
言葉を正確に覚えられない。
イメージでしか記憶に残っていかない。
下線の部分は、何を語っているのでしょう?などの設問には、幾通りものイメージが交差し、多くの場合、設問者の意図と違った回答を書いてしまい、×の評価を受ける。
質問者の恣意が入らない理系の科目は、エビデンスさえ抑えておけば、ガリレオの心境になれる。あやふやなところはない。人間が作った恣意的な規則と、自然に潜む美しい法則・・・自然は嘘つかないし・・・と思っていたのだろう。
しかし、文系の授業は好きだった。
語られたイメージだけはくっきりと心に残るようだ。
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今年の花筏は、最盛期を見逃してしまった。

これが、今年撮影した最大の花筏だろう。
大崎の丘から、縄文時代の住居跡が発見されている。
数千年前の縄文人も、山桜の散る目黒川の花筏を、きっと見ていたにちがいない。
どんな思いで、桜を見ていたのか?
日本に文字(漢字)が伝えられると、万葉仮名で歌を記録していく。やがて洗練され、綺麗なひらがなとなって、歌集が編まれていく。
「いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂ひぬるかな」
今になると、Visit Japanのキャッチコピーのような気もするが、イメージは鮮明、
心の中に、想像のイメージが生み出されていく。
若草山に登る。咲き誇る八重桜の花の間から、はるか眼下に大仏殿の甍が輝いて見える・・・。
「ねがはくは花のしたにて春しなんそのきさらぎのもち月のころ」
咲き誇り、散っていく桜に、死(詩)のイメージが、つけ加わっていく。
夥しいほどの短歌、俳句、語り物、小説が書かれてきた。
それを読み、反芻し、桜のイメージは豊かに心の中で熟成されていく。
桜の季節、そわそわとして、桜に心を寄せるのは、昔の人との体験の共有を感じるからだろう。
桜を媒体に、新たな発見をし、表現を加えるのは、今、桜を見る人の責務・覚悟だろう。
そうやって、さらに桜のイメージは豊かになっていくとおもう。
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大岡 昇平の小説「花影(かえい)」を読んだのも、梶井基次郎の短編を読んでいたころだった。
内容は忘れても、その小説の一節で語られた吉野の桜のイメージは残っている・・・そのイメージは、主人公の自殺の予兆になっている・・・と勝手な解釈をしている。
「花筏」・・・・死のイメージが漂う言葉だと思う。
お盆になると灯籠流し風習が残っている地方もある。
そんなイメージと重なってしまう。
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今見ているこの桜に、何を感じ、どんな新しい表現(見方)を付け加えることができるか?

しょもない「花筏」の写真を撮っているが、

感覚の鈍い老人には、こんな切り取り方するのが精一杯だ。
デジタル時代、映像美を表現するいい時代になった。
自由なんだよ。
これからの若い人に、眼から鱗の桜の表現を期待したいなぁ・・・と、思っている。
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- 2015/04/14(火) 14:18:39|
- 桜
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