写真にとって傑作とは何だろう?と時々考える。
手仕事で作られた木製のカメラは、マイスターの作る金属製のカメラ(工芸品)となり、ついには大量生産の工業製品となる。
カメラには常にその時代の先端技術が組み込まれていく。
4Kの動画カメラができている。そのうち、8K、12Kのカメラも出現するだろう。
もはや「決定的瞬間」を捉える特殊な才能など必要なくなっている。
様々な撮影法が開発されてきた。逆光で撮る、夜景を撮る、窓際でとる、花を接写する、それなりにコツが必要な撮影だったが、それもカメラの進歩で、ダイアル設定で綺麗に撮れるようになる。笑顔を認識してシャッターを切ってくれるカメラもあるようだ。
だれでも、写せる時代。しかも写真は、同じものを無制限に複製できる装置だ。
無制限に複製できる写真に「傑作」という概念が結びつくだろうか?
傑作とは唯一無二の作品だろう。
写真コンクールで一番いいと認められた作品、それに類似した写真も沢山あったはず。
どれが特選でどれが落ちたか? 特選が傑作なら、落選作も傑作だったとしてもいいのでは・・・と思ってしまう。
結局、たまたま選んだだけなのだ。重箱の隅を見つめ、悪い点を見つける。ここに小さく小屋が写っている、目障りだから落選・・・そんなものだろう。
どう切り取るかで、写真は決まる。いい写真、傑作を撮ろうと意気込むと・・・なぜか、違和感を覚える。
所詮、写真は目の前の現実のコピーだろう。カメラは、ゼロックス(複写機)のようなもの、カメラマンに替わってカメラが現実をどんどんコピーしていく。
目の前の現実(客観)を写してるのはずの人間(主観)が、写真となった瞬間、こんどは立場が逆転、カメラ(写真)が主観となり、写した人間は客観となる。そんな馬鹿なと思いながら、衆目に晒されているような感覚を居心地の悪さを覚えている。これ、小生一人だろうか? Minolta Hi-Matic F を使いだして、そんな感覚が芽生えてきた。傑作という言葉は、写真になじまないなぁ・・・と思う。
クーデルカも写真集の序で、不特定多数の人に(展覧会)見てもらうのは、自分が(売春婦)であるような羞恥心を覚えたと述べている。そうだなぁと共感している。
カメラは、目の前の現実を全て捉えているわけでもない。フレーミングの前後左右上下にも現実の光景はつながっている。それをフレーミングし切り取っているに過ぎない。ノートリが基本だと思わない。トリミングしてもいいし、何枚かつなぎ合わせパノラマにしてもいいと思う。写真は撮っただけでは、まだ未完成、トリミング、焼き付けで 変化していく。古いネガを持ち出し、フィルムスキャナーでデジタル化し、トーンを調整すると、むかし印画紙に焼き付けていた写真と違う雰囲気の作品に仕立てることもできる。絵画でそんなことできるだろうか?
昔のネガを持ち出すこと可能な写真とは、常に未完なものかもしれない。

現在、フィルムスキャナーには、エプソンのF-3200という機種を使っている。
取り込みソフトのトーンカーブを直線にしてネガを取り込み、レタッチソフトでトーンカーブを調整した画像。
露光は、レンガのディテールを出したかったので、影の部分に合わせている。日の当たるところを主に考えたら3絞りほど露光を絞っただろう。陽の当たるところに対しては露光オーバーになっている。レタッチソフトで、白の部分を焼きこむような調整をした。

同じネガを、フィルムスキャナーで取り込むとき、白い部分が飽和しないようトーンカーブを調整し、取り込んでからは、ストレートにだした画像。こちらのほうが、レンガの材質感 少しいいかも・・・しかし、これは好みの問題。大した差ではないと・・・思うのですが、それを針小棒大に評価するのが・・・・写真コンテストかもしれませんね。

レタッチソフトで、取り込んだ画像の白黒の対比を強調すると、こんな写真ができてくる。
あとで、調整できるなんて、安易かなぁと思えど、10年後、もっと画像処理技術が進歩すれば、このネガから、すごい作品ができるかもしれない。やはり、写真は未完なのだろう・・・と納得する。

陽の当たるところに注目すれば、こんなトリミングが可能だろう。

白と黒を強調した画像からは、こんなトリミングもできる。
写真は現実のコピー、トリミングして何故悪い?と開き直っていた。
スポンサーサイト
- 2015/03/22(日) 11:11:01|
- 写真の技法
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0