目の前の「もの」あるいは「出来事」をコピー(記録)するのが写真だと、最近になり、ようやく気づいた。
そんな簡単・自明なことも分からなかった・・・何年シャッターを押してきたのか?不明を恥じるばかりである。
美しい写真撮りたいか?と聞かれたら、少々躊躇する。
「美しい」撮影スポットに行き、シャッターを押せるだろうか?と自問する・・・アンセル・アダムスのハーフドームの写真が心のなかで散らつく。写真には、写した人も同時に写され/記録されている。風景写真のハードルは高いと思う。
ハーフ・ドームの写真には、確かにアダムスが撮影準備している気配があり、それを隣で見ている小生が居た。
これが、風景写真だろう。風景を媒介にして、人と人が結びつくこと。アンセル・アダムスの写真は、「どうだ上手いだろう」と自慢するものでもなければ、「見ろ、どうだこの雄大な自然は・・・」と説教を垂れているわけでもない。自然への崇拝の念が、静かに写しこまれている。
クーデルカも、撮った写真を見せるとき、羞恥心を感じたという。なぜなら、そこに、大事な彼の精神が宿っているから。これが、上質な写真というものだろう。
歌手は、うたう。そこには喜怒哀楽があり、聞く人の心に迫ってくる。音楽が媒介となり歌手と聴衆の間にわくわくする世界/関係が開ける。単に美しい歌声だけでは、世界は閉ざされたまま、だれもその世界に入りたいとは思わない。
画家は、絵に己の人生を重ねる。静かな静物の絵もあれば、怒りの絵もある。単に技巧だけの上手な絵では、見向きもされない。心の琴線に触れるものがあるから、歌手は歌を歌い、画家は筆を持つ。
目の前の「もの」「出来事」に、何かを感じて、シャッターボタンを押す、その瞬間の何かをつかみたいから・・・それが写真を撮ろうとする行為だろうと思う。「何か」写っていれば、写真を見る人との媒介になると信じたい。写真には、撮った人も写っている。

アンセル・アダムスの写す「月のある風景」に感化されているのかもしれない。 一年ほど前にも、何回か月を撮ろとしていた。地上の明るさと月の明るさ、調和させるのは難しい。しかし、何かある。 もう一度挑戦してみようと思っている。
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撮影に使用したレンズは 戦後東西に分かれたツアイスが、西ドイツ オプトンの地で再建した工場で、初めて製造した50mm F:1.5ゾナー最初のロット2000本のなかの一本。カメラは、オプトンで作られたContaxⅡaを使用している。
後楽園で使用したレンズは、戦前ツアイスのイエナ工場で作られた50mm F:1.5ゾナー。 同じゾナーだが、戦争で分断し、東西ドイツでそれぞれ生産された。オプトンゾナーもいいとは思うが・・・戦前のゾナーのほうが小生の好み。依怙贔屓かもしれません。久しぶりに使ってみました。
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二日前の夕刻、月を追い、モノレール汐留駅の方向に歩いていた。
露光はどうしよう?・・・・都会のビルはシルエットになってもいい、月のうさぎをしっかりと撮れれば・・・と、立ち止まり、ダイアルを設定する。絞りはf:8 シャッター速度は1/500秒にした。
見上げ月を追うと、地上を「ユリカモメ」が通り過ぎていくのに気づく。慌ててファインダーを覗きシャッターを切る。どこまでも広がる空とちっぽけな地上の景観・・・地上を見下ろす月・・・??何を感じていたのか、縦位置のフレーミング、地上をすこし、空の部分を大きくとり、撮影していた。
現像が上がり、PCに取り込む。縦長の画面、大きく夕空が広がる。上部に間延びした空間が広がっていた。フレーミングのミス。三つの明るい光が目につく。左下の朝日新聞のマーク、右下のユリカモメのガラス窓、それに中央の月・・・・トライアングルになっている。空の部分を大胆にトリミングしていた。朝日新聞社のマーク、撮影しているとき意識には入っていなかった。(見えてはいませんでした。)
月のうさぎ、耳の形ハッキリ写っていました。
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- 2014/12/04(木) 18:58:03|
- 都会の景観 Tokyo
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