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本当に大切なものは見えない

古いフィルム・カメラで、ありふれた身の回りを撮っています。日常の中の一瞬を捉え、読み解く写真になっていれば・・・

1967年の蓼科(その4)  蓼科山

蓼科に行けば、蓼科山はどこからでも見える。ついカメラを向けて撮ってしまうが、とりとめのない写真になりがち。
空と光が、特別な時に巡り合えないと、キャッチーな写真はできない。運と根気と・・・暇と金がポイントだろう。
一度、すごい朝焼けに出会っている。これは、小生の記憶に残る出来事だが・・・他人からみれば、「あぁそうなの」というレベルだろう。誰もが、高級なカメラを持って、その場に居たら、このような写真を撮影できただろうと思う。
八ヶ岳-22b
単に運がよかっただけ。
しかし、その時は、そうは考えなかった。どうだすごいだろうという、誇らしげな気持ちでいた。
単に、Nikon Fとそのレンズの性能が素晴らしかったからに過ぎない。バカチョンカメラでは、こうは撮影できなかっただけである。
クリックすれば大きくなります。(このグログに掲載済み)
蓼科山-53
当時は風景写真にのめりこんでいた。
47年前の県道は、まだ舗装されていません。落葉松もそれほど成長していないので、蓼科山がくっきりと望めます。現在は、成長した落葉松林に遮られ、わずかに蓼科山の上部を覗かせるだけ、カメラを向けてフレーミングする気にもなりません。
風景写真は、時の経過とは無縁な普遍的な美しさを追及する。19世紀末、マイブリッジがヨセミテの風景を撮影している。美しい絵葉書にして、販売するのが目的でした。
20世紀中ごろになると、アンセル・アダムスが、ヨセミテ国立公園を撮影し、傑作をものにしている。
現在も、旅行雑誌には、カラーで撮影された現在のヨセミテパークの美しい写真が掲載される。
そこに、時間の経過を感じることはない。湿式で撮られたもの、8×10のフィルムで撮影したもの、最新のデジタルで撮影されたもの、その差はあれど、作品としていいか悪いかが、関心のポイント。
この写真は、違っています。歳月が過ぎていったのを、はっきり認識させくれる写真(記録)になっています。続いて撮影したカットには、兄の若い日の姿が焼きこまれていました。これは、家族のアルバムです。35mmの広角レンズで切りとっていました。
少々、技巧に走りすぎですが、この場所を、撮るなら、今なら、こんなフレーミングしないと・・・・落ち着かない。
New蓼科山DSC03188
カーブ・ミラーに映る蓼科山を撮影。電信柱が立ち蓼科山の景観を汚しています。直接フレーミングする気にはなれませんでした。
蓼科山・奥蓼科-10 
少し高いところから撮影したようです。Nikon F Auto-Nikkor 50mmの標準レンズで撮影しています。
New蓼科山660-11
これは、今回撮影したもの。同じ50mmレンズです。レンズはキエフのJupiter-3。
1950年製です。使われたレンズは全てドイツのイエナ工場から運んだものでしょう。ツアイスの技術者が全て教え、チェックした、ほぼ、ツアイスのf:1.5ゾナーです。
蓼科山-2
Nikon F Auto-Nikkor 105mm F:2.5のレンズで、蓼科山をクローズアップ。35mm、50mm、105mmとレンズを換えて撮影していました。
今回は21mmと50mmのレンズで撮影。21mmの広角は、最初少し使いましたが、あとは50mmレンズ専用で撮影していました。50mmレンズが体質に合っているようです。
New蓼科山660-12 Ⅲ
少し高いところに登り縦位置で撮影。
広角は、デジタル専用です。
New蓼科山DSC03265
こうやって撮影してみると、風景写真は時の経過とは無関係です。今年撮った蓼科山の写真と、47年前の写真、本質的な差などない。どちらが今年で、どちらが47年前か・・・どちらがいいかなど、論じることもできない。同じレベル、大したことない。
写真の重要な要素、記録性は抜け落ちています。絵画の世界に入りこんでいるのでしょう。しかし、写真は絵画??になりえると思いたいのかなぁ・・・・また19世紀末のピクトリアリズム写真に戻りたいのだろうか?
絵画は、風景をそのまま写生(写真のように)したものではない。風景に潜む「精神」を描いたものが作品として残る。
雪舟の天橋立図、フェルメールのデルフトの眺望、ターナーの風景画、北斎の赤富士、広重の五十三次、セザンヌの山のデッサン、林武の赤富士、風景を描いた画家の作品を思い浮かべると、写真とは全く異次元の美の世界。画家の精神世界そのものだろうと、叫びたくなる。
画家は内的必然に従い、筆をとり作品を作って行く。風景の内在する精神そのものに感応し、作成されるのが絵画なら、写真家で、そこまで踏み込み撮影した人はいただろうか?
「綺麗だから撮った。」「素晴らしい瞬間だから、シャッターを切った」、「これを皆さんに伝えたかったから撮った」、「一期一会、その美しさを記録する」・・・・写真はコピーで何枚も同じ写真をを複製できる。現代の消費文明に根差している。美の次元が違っている。言い訳で納得させても、異次元は異次元。だめなものは駄目。シャッターを押すだけで作品ができる文明の利器、記録装置です。そこを無視し、風景に潜む精神を、写真家は、どのように抽出し、写真に焼き付けてきたのか?
とはいえ、ごく少数の優れた写真家が、それをなしえたことも確か。
アンセル・アダムスのヨセミテの写真を見たとき、雷に撃たれたようなショックを感じた。
じっと、作品を見つめ、そっと瞼を閉じると、隣に人の気配を感じた。
がっしりした三脚にセットされたビューカメラを操作する人がいる。暗幕を被りフレーミングするアンセル・アダムスが居た。暗幕から顔をだし、こちらを見て、にっこりと笑う。
そう、この写真には、人が二人写っている。見ている小生と、撮影するアンセル・アダムス。
眼を開けると、ハーフドームの写真が目の前にあった。
風景写真に熱を入れていた4年間は終了、以後、風景写真は撮らなくなった。誘われれば撮るが、自分から積極的に撮る気にはならない。
撮れるものなら、アンセル・アダムスのような風景写真を・・・・とても無理とあきらめた。
一方、「花鳥風月の美しさ」だけを競い合う写真には、飽きてしまったのだろう。
それからは、家庭のアルバム用写真に専念。写真の重要な機能、記録性が、写真を撮るための支えになっていた。




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  1. 2014/09/16(火) 19:28:49|
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Author:Alchemyst Sasaki
Phone-Cameraの時代、フィルムで撮ることの意味合い、意義はあるだろうか?と懐疑的になっている。写真の置かれている場所・期待・求められているものが根底から変わってしまったのかもしれないと思っている。
それでも、もう一年白黒フィルムで遊んでみるつもりでいる。

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