7月26日(土)、神楽坂で阿波踊りがあると聞き、「撮る阿呆」になろうと思い、行ってみた。
神楽坂・・・嘗ては、大物政治家が、神楽坂の料亭を舞台に、秘密会合を行った場所。ロッキード事件で、神楽坂に料亭があることを知らされた記憶が残る。皇居の北側、霞が関の官庁街からも近い。
「神楽坂」、響きがいい、おそらく芸者さんの連もあるのでは?と期待していた。

6時、子供たちの阿波踊りが始まる。女踊りをするのは、大人の連に参加する父兄の飛び入りだろう。揃いの半被を着た大人達は、学校の先生だろうか?そんな想像をする。

7時になると、大人の連が始まる。その少し前、家族の記念写真を撮るお父さん。今のデジカメ、綺麗に撮れます。

いろいろ探したが、残念ながら神楽坂芸者衆の連はありませんでした。

祭りに参加する「踊る阿呆」の沿道には、デジタルカメラ、スマホ、タブレットを持った人が立ち並び(座っている人も多いが・・)盛んにシャッターを切る。写されることを前提に「踊る阿呆」になっている。「撮る阿呆」は、それを共通認識だと思ってシャッターを切る。

85mmのレンズを使ったので、上半身のポートレートを撮影できる。周りの沿道には、デジタルカメラを持つ人が多い。おそらく、気づいていない。

戦後まもなく「リアリズム」写真を唱えた土門拳は、絶対非演出の写真を標榜した。
しかし、彼も表現の自由と、個人の尊厳(人権)の問題では苦しんでいる。どちらの概念も、戦後民主主義では重要な守るべき概念・理念である。リアリズムは表現の自由の範疇に入る。また個人の尊厳は、人権として守られるべきものである。
「人を黙って撮っていいのか?」と詰問されたら、うまい弁明の言葉など、持ち合わせていないと告白している。
写真でしかできない表現の特徴は、対象物(モチーフ)をよく見、感じたら、絶対非演出で、その場面を切り取ることができることにある。これが、絵画、映画、劇との根本的な違いである。非演出で撮らないと、大事なものが消え、嘘、虚栄に覆われ、写すべき現実が隠されてしまう。
写真は、非演出(断りもなく)で撮りたいが、盗撮と言われたら、それは、そうだ。平身低頭謝るしかない。
昭和31年の雑誌のコラムにそう記述している。
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難しい問題が横たわっている。3.11の大津波の後、日本のカメラマンが群れをなし、現場に行き状況を写真に収めている。なかには、あまりの悲惨さに、1ヶ月、カメラのシャッターを押せず、ボランテアの救助活動に参加していたとうカメラマンもいる。それも 正しい行為だと、尊敬する。
外国のカメラマンも入った。外国では、彼らが撮影した眼を覆いたくなるような写真が出ていたが、日本のカメラマンは、死体を写すようなことはしていない。 暗示的に示す写真が載るだけ。 本当の悲惨さは、外国のカメラマンのほうがよく伝えている。
死体を写すことが個人の尊厳を傷つけることになるのか? 遺族の感情を傷つけたくないという配慮か。
「撮らない」という演出があるのだろう。
現実を直視し、絶対非演出を唱えた土門拳なら、どうしただろう?
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日常のスナップ写真など、そんな重い命題を背負っていないよ、と嘯くことができるが、本来は見過ごすことできない命題だと思う。
この頃は、撮影時に前もって断り、人を写す(もはやスナップではない)安全な演出写真の時代。
或は、人を写せないなら花鳥風月だと、趣味で写真を撮る人は向かう。
毎日が日曜日の、少々ボケの始まった老人だが、
「本当に大切なものは見えない」 それを撮ろうとする気持ちはある。このグログを始めた最初の写真が、発端。
二人の後姿に、眼には見えていないが、なにか大切なものが写っていると感じている。
絶対非演出という言葉に、魔力を感じる。
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沿道の「見る阿呆」を、スナップしてしまいました。
絶対非演出です。
盗撮と詰問されたら、謝るより致し方ない。
だから絶対非公開です。
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- 2014/07/30(水) 11:52:20|
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