いよいよ年末が近づき、慌しくなってきました。
今年1年、フィルムで撮った枚数は3500枚ほど、36枚撮りパトローネで100本弱。例年は3000ショットですから、かなり増えました。写真同好会「彩遊」に入ったこと、そして、このブログを始めた効果かなと、思います。
PCのデスクトップに、リサイズした画像が数枚残っています。ブログに載せようと思っていたが、載せず残ったものです。落穂ひろいのようなこと してみました。
今年は 原点回帰をはかり、色々な写真の技法に挑戦してみましたが、いまだ、道なかばという感じです。

昨年の暮れごろより、「水底の世界」を撮影していました。
普通、映りこみの写真とは、水面に映る虚像を現実の風景と一緒に撮影し、風景写真を一層美しく飾り立てるものです。
それが嫌で、視点を水面だけに限定し撮影。美しい風景を撮ろうという意識は消えています。まして、地球は水の星、この素敵な世界を、皆さんに伝えたい・・・など大それたことは考えていません。むしろ「水底に心魅かれる実はないか・・?」とカメラを向けていただけ。面白そうだ、何か写っていれば、という感覚です。
お堀の鯉です。樹と同じ平面、あるいはもっと遠くを泳いでいるような感じを受けます。だとすると 大きな白い魚です。なんとなく童話に出てきそう。メルヘンチックですね。ちょうど、洗足池の鯉の写真を撮っていた頃の撮影です。

今年の桜は早咲きで3月の中旬から、桜を追っていました。この写真、構図を作った瞬間、抹香くさいと、そう感じていました。仏教説話を思い浮かべていたのでしょう。火宅の人?だっけ。横に流れる川(実際は目黒川ですが)は彼岸(悟りの世界)と現世(火宅)を分けて、飛び石で2つの世界をつながっている。現世では、子供が楽しそうに遊んでいる。女の先生(観音様の化身)が、教え諭し、業火に燃える家を離れ、あの彼岸に至る道(教え)に導こうとしている。前面には、枯れた茎。やぁ~~抹香くさい、駄目と、没に。

桜には、死のイメージを感じてしまう。戦前の教育では、おそらく武士道を曲解し、戦うことを知らなかった農工商の人まで、富国強兵の掛け声の下、これが武士道と、潔く死ぬことを強要、その象徴として桜を推奨したのだろうが・・・小生は、「あの桜の下には死体が埋まっている」と、感じた詩人の感覚のほうを、共有したい。
花いかだです。どちらに流れているのか? これも そう感じると、すこし抹香くさくなってしまいます。

単純に、筍を上手に撮りたいと、悪戦苦闘しました。ただそれだけ。でも、竹林を吹き抜ける風を感じ、それを撮ってみたいと思うように・・・それが収穫か、挑戦するものを発見するのが、趣味の醍醐味でしょう。

まさか、自分の後ろ姿・・・ボツだと、PCのデスクトップに残されていた一枚。

接写+ストロボの技法で 捉えた百日紅の花。あまりに調子のよいネガになったので、ボツ。露光が多めで、銀粒子でざっらとしたネガが好いと判断。普通なら採用なのですが・・・残念な一枚です。

横浜、中華街でのスナップ。相手は鳩。人通りが多いのですが、瞬間 地面へ降りる。これも秒撮。すぐに飛び立ちました。
一年 色々撮りましたが・・・来年も、撮り続けることになるでしょう。小生、退職後は至って行動範囲が狭くなっています。身近な場所を散歩するだけ。それでも撮りたいと思うものが次々に現われてきます。
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- 2013/12/30(月) 11:11:49|
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