江戸時代 西洋絵画が出島を経由し日本にもたらされる。
それを見て日本の絵師は、驚いたのではないかと思う。
空間の表し方が それまでの日本の技法と異なっていた。
どのようしたら、このように空間を表現できるのかと、
西洋の遠近法を学び、それを取り入れるようとした。
幕末に近くなると、カメラがもたらされる。
そして、これが、見ているものを、
そのまま細部まで間違いなく記録する装置かと合点する。
Photo Graphを「写真」と日本語に翻訳した。
もちろん、光画と訳した人もいたが、
「写真」という言葉の方が、日本人には受けが良かった。

写真は、3次元の空間を2次元の平面に記録する。
見たものをそのまま写しているかというと、そうでもない。
しかし、心の中で画像を認識し、そこに、なにが映っているか了解する。
その瞬間、写真は「記憶の鏡」となる。

でも白黒の写真は、みたものそのものの記録にはなっていない。
細部まで記録されているとしてもカラー情報を欠いている分、抽象的だ。
記憶の鏡となるためには、具体的なものがよりよいと、
カメラが発明されてた初期の時代から、すぐにカラー写真へ関心(開発)が進む。
20世紀初頭にはカロタイプのカラー写真(ポジだった?)が発明されている。

フィルムの感光域も、より長波長への開発が進み、やがて赤外線フィルムも出てくる。

赤外光を人間は見ることができない。
可視光をカットしたフィルターで撮影された赤外線写真は、
見たそのまま撮る(記録する)という概念から外れる。
見えなかったものを、見えるようにして、その奥に潜むものを見たいというのが人間のエトスなら、
これも写真。

一度「写真」という言葉が日本人の心に定着すると、
今度は、その言葉に支配されてしまう。
写真という語感から、(真を実として正確に写し取る。)
真実を写すもの・・・と心の底では思ってしまう。
人間の目では はっきりと捉え切れないものがあると・・・思う、あるいは思いたい。
それを捉えたとする心霊写真が出てきたり、(デジタル写真になってからはなくなったと思う。)
写真は「写心」だと言ってみたり、
この写真は(私の)心象風景を写したもの・・・と言いたくなる。
カメラは自然科学の発展を基礎に、技術開発によって生み出された科学機器。
科学技術の結晶。
しかし、まだ人の心の原理は解明されていない。
それが撮影できるか否かもわからない。
その原理が解明されない限り、
残念ながら、カメラに、心を写す機能を、組み込むことはできない。
カメラにできるのは、見たものを写真に撮る(記録する)こと。
それは、自分の「記憶の鏡」になるが、同時に、人に伝えたいことにもなる。
スマホで撮った画像を、すぐに友に送りたくなる。
研究用カメラは、銃弾が打ちこまれた瞬間を高速度撮影で捉えたり、
探査衛星に備えられたカメラは、遠い小惑星の表面を撮影し、地上にその画像を送る。
用途により必要な機能は決まり、用途によりカメラは作られている。
その機能の限界まで利用するのが、写真を撮ることだと思う。
カメラがあまりにも発展し、誰もがきれいな写真を撮れるようになる。
個人的な独自の写真表現となると・・・なかなか難しい。
みたいもの、知りたいもの、記録しておきたいもの、
それをカメラで捉えようとするのだが、
写っているものは、あくまでも現実のコピーに過ぎない。
誰が撮っても大同小異じゃないかと思うが、
しかし、じっとその写真を見ていると、
撮る人の志(こころざし)の高さ、知性、熱意(腹に一物があるか)が 見えてくることがある。
撮ったつもりが、結局、撮る人が被写体に試されている。
写真はやっかいにして面白いと思う。
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- 2020/08/22(土) 12:19:28|
- フィルムの眼
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