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本当に大切なものは見えない

古いフィルム・カメラで、ありふれた身の回りを撮っています。日常の中の一瞬を捉え、読み解く写真になっていれば・・・

見えることは 見る手段に依存する。

産業革命ではじまった現代文明。
そこで 重要な役割を果たした熱機関の 重要な理論・熱力学は、19世紀末にほぼ完成した。
ニュートンの発見した、万有引力の法則と、運動の法則 それに熱力学があれば、
この世の秘密は全て解き明かせると・・・・夢想していた。
この宇宙は、精密な機械仕掛けでできていて、
原因があって、結果を生じる。 
その結果が次の原因となり、結果を生む。その繰り返し。
世界は、因果律に従って、明快に進むもの・・・と思っていた。(夢想していた)

しかし、観測技術が進み、遠くの宇宙を観察、あるいは 微細な世界を観察していくと、
どんどん奇妙な世界が 見えてきてしまった。

1920年代、日本なら大正時代から昭和の初めころ、奇妙さは決定的となる。
その奇妙な宇宙/物質の成り立ちを理論化しようと試み、量子論があらわれる。
原因結果の果てしない因果律を信じる理論物理学者アインシュタインは、
「神様はさいころを振らない」と、その理論に激しく噛み付いた。

しかし、明らかに欧米では、
当時の知識人、芸術家、作家の心を捉え、影響しているように思える。
第一次世界大戦後、
世界は混沌としていた。
原因をめぐる論争、その結果の争い、
その連鎖から逃げ出せずついには世界大戦という悲劇が生まれた。
その心の憤り、反省がある。
物理学者は、「存在は決定論(因果律)に縛られていない!!」と量子論を唱える。
どうなるかは確率計算式でしか表せない・・・・
機械仕立てでこの世が成り立っている訳でないと、吹き込まれたら・・・・何にアイデンティティーを見出すか?

アンドレ・ブルトンを中心にシュールリアリズム運動が起き、詩や小説が世にでる。
印象派絵画は超現実絵画、キュービズム絵画などへと変化していく。
マンレイは写真でそれを表現しようとした。 
第一次世界大戦と二次大戦の間のパリは、その運動の中心。
写真にとっても、一番すごい時代だったろう。
日本でも、
大正時代から昭和初期、フランス芸術が紹介され、熱狂して受け入れられていた。
山本 悍右は その日本のシュールリアリズム写真の草分け、
前衛写真家として、戦前から戦後もシュールな写真を撮り続けていた。
今となると忘れられた写真家になったのだろうか?
鳥取の砂丘で写真を取り続け 名声を得た植田正治氏の作品にも、明らかシュールリアリズムの影響を見出せる。、
山本 悍右氏より 過激(つくりもの、トリッキー)な作品ではない。それが、日本人には 受けがいいのかも。
フランスの審美眼からすれば、日本にもシュールリアリズム風写真を作った人がいたのだという、評価。
植田正治氏の作品、面白いと彼の地で受け入れられるが、あくまでも傍流として。
フランスのシュールリアリズム時代の写真家と同列の評価ではないだろう。

オリジナリティーこそ、高く評価されるべき。
それを真似し、更に改良して派生した作品なら、
よほどのことがないと、評価は下がるのは当然だろう。

物体/存在が どう見えるかは、
それをどのように観察したかに依存する。
観察するのは、人。そこがこの芸術運動の出発点だった。

写真家が、「いいと思ったら、がっと寄って、ぱっと撮る。」などの講釈を垂れる。
写真家なのだから、ありがたい教えに違いないと・・・思いたいが、
写真家て知性的?なのだろうかと 時に訝しく思う。
何のことかわかっていないのに、やたら専門的な言葉を使い、人を煙まく人のことを、
英語ではfruitlooperyと呼ぶ。
部外者には不明の仲間内の言葉を連ねて、写真を語る。
写真雑誌に載った写真評論を読むが、小生には何のことか わからない。
断片的な警句をちりばめれば それで評論が完成だろうかと思ってしまう。

いい評論、適切な評論が、写真表現を広げるためには必要だが・・・・
文芸批評家の小林秀雄のような人、
写真評論に現れないかなぁ・・・と思うのは、小生が歳を取りすぎたせいかも。
写真は ネットに現れ、泡のように消え、一時的なもの。コミュニケーションの手段、道具に過ぎない。
もう、アンドレ・ブルトンのような人が、でてくるような文化基盤は ここにはないのかも。

でも、見ることの不確かさは、依然としてのこる。
スマホで ちょこっと簡単に撮っても、
物体/存在が どう見えるかは、それをどのように観察したかに依存する。
カメラは それを記録する。

デジタルで撮ろうが、フィルムで撮ろうが それはいい。
も少し、観察し、考えること しないのかなぁと思う。
池田山公園の鯉1210-41
見て観察し、撮影する。
観察した手段が異なれば、違って見える。
池田山公園の鯉1207-3 Ⅱ
人の眼をひく写真を撮りさえすればそれでいい。
インスタ映えする写真とれればいい。
それが、現在の写真術かも。

かつて(フランスの写真家達)は、感性、理性、知性で 写真を撮っていた。
今だって、深く思考し、対象を見定め、注意深く観察し 写真を撮るプロ写真はいる。
それは、ごく少数だが・・・確かにいる。
写真は その人の知性まで さらけ出してしまう。
フランスの写真家、カルチェブレッソンは、第2次世界大戦のとき、
フランスの地下組織(レジスタント)の一員として 命を賭して、ナチスドイツと戦った。
ドイツの人物写真家 アウグスト・サンダーの写真集「時代の顔、Antlitz der Zeit」は
ナチス政権下 押収、原版は破壊されたという。
写真家がレジスタンスとなり、
あるいはその写真が時の政権にNoを突きつけ、迫害された写真家、日本にいただろうか?
(いないわけもないだろう・・・とは思いたいけど)

戦後 日本は世界最大のカメラ生産国になった。
フィルムカメラも デジタルカメラも 日本が一番。
でも それは生産の中心であって、写真表現の中心にはなれなかった。
プロの写真家は多いが、写真表現では後進国ではないかと 感じている。
知性、志、覚悟はどうだろう?

いま また写真表現の手段が、
iPhoeなどのカメラ付電話 即ち、スマホに変わってきた。
(スマホの生産は、韓国や中国に移っている。 最早、カメラの生産の中心ではないのかも知れません。)
手段が違えば、見えてくるものは 違う(はず)。
日本の写真の撮り手(プロ)は、それを どう捉えているのだろう?
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  1. 2019/06/27(木) 19:39:32|
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