雑誌をパラパラとめくる。青い珊瑚礁の写真が見開きいっぱいに広がる。プロの写真。さりげなくオメガの宣伝が載る。ページをめくる。ああこれもプロの作品だ。重厚なヨーロッパのホテルのロビーを、構図を決め、隅々までピンが出ている。三脚を立て、大型カメラで撮らないとこうは写らない。料理のクローズアップ、おいしそうだ。行きたくなる。旅行会社の説明が続く。綺麗な花のクローズアップ、小さく香水の宣伝が・・・
将に映像の時代、身の回りは綺麗な写真に取り囲まれている。自分の写す写真まで、影響を受けてしまう。
いつしか、美しいだけの写真を撮ろうとしている自分がいる。思わずフレーミングする。待て、それは、プロが撮っているだろう。それ以上のもの撮れるか? 十分じゃないか。もし、ほしいのならプロの作品を買えばいいと、我に返り反省する。
プロが取るこれらの写真は、クライアントの求めに沿って写されたもの。写真が勝手に語りだしては駄目。キャッチーで美しい必要があるが、でしゃばってはいけない。語るのは、あくまでも文であり、クライアントの意向に沿い飾る/購買意欲をそそる写真が求められている。
写真で飯を食っているわけでもないアマチュアは、自分の懐で撮っているのだ。もっと自由であっていいはず。でしゃばった写真、とんがった写真を撮ろう。
そう思いながら、お散歩中、「おやっ」と思ったものを撮影する。美しいだけの花の接写(クローズアップ)撮影は、性に合わないようである。いいねと思っても、それだけ、それ以上花は何も語ってくれない。(まぁ小生にその感性がないのでしょうが・・・)

美しい写真より、少々見栄えが悪くてもいいから、撮影者の手を離れ、勝手に語りだす写真を撮りたいものである。
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- 2013/10/06(日) 07:57:10|
- ひまわり
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