1枚の印画紙に、多数のネガを使用し、1枚の画像を作る合成写真(Composit photograph)が作られたのは、写真が発明されたごく初期の19世紀末のことでした。絵画のような表現を求めた結果、盛んに製作されたようです。近代の写真は、そこからの決別・独立で始まったといえるでしょう。
しかし、21世紀に入り状況は変化しました。デジタル時代になると、レタッチソフトでレイヤーを重ねれば、多重露光や、モンタージュ写真(合成写真)は、ごく簡単にできるようになりました。また、世紀末のPictrial Photoの時代に戻るのでしょうか?
ネガ上に、(細心の注意と、煩雑な操作で)多重露光することと、レタッチソフトで簡単に同じ効果を実現すること そこに本質的な差はあるのだろうか? 考え込まざるを得ない。
ならば、一度合成写真を作ってみようと、没になった写真から樹と月の写真を選んで合成写真を作ってみた。使ったのは10年以上前のレタッチソフトPhoto Shop Ver.3。 最新版ではありません。

これは、今年の戸越公園の夜桜です。見所のない写真だったので没になっていました。満月をはめ込むことで、画面が引き立ちます。(キャッチーになる。)夜桜は50mmで撮影。満月は300mm程度の望遠で撮影した大きさになっています。しかし、300mmレンズで 遠くから狙い、絞りを利かせれば、桜と月の大きさの割合、撮影できるところ、どこかにあるかも・・・と、心の中で納得させ、違和感を覚えません。(全てのことを懐疑的に見る人は、まれ、大概は、好意的に解釈しがちです。)
合成写真と断らないと、「センスいいな。ベストタイミングを選んで、的確に撮っている・・・」と、よい記憶を残しながら、次の写真へ眼が行ってしまうでしょう。
しかし、合成写真と知ったら、「なに、だまし絵か、受け狙いかよ」と馬鹿にされるのかも。

一瞬 見ただけでは、月がくっきりと撮れたいい写真という印象ですが、じっと見ていると、不自然さにすぐ気づくでしょう。林の撮影は夕方の4時ごろ、北東の方角を写しています。月が昇っても、この位置に来ることはありません。300mmの望遠で狙って、画面上部から下がる枝を撮ることは不可能です。樹の根元から300mm望遠で見上げたら、この構図の写真は撮れないので、すぐに合成写真と 判断できます。
表現したいイメージがあり、それを実現する手段として合成もありえるとは 思います。
あいにく、そういう内的な必然として、イメージを表現したいという芸術的なセンスのない小生のような身では、合成写真は、受け狙いで、キャッチーな画面を作って、注目を浴びたいという姑息な手段になりかねないでしょう。
先日、某有名メーカ主催のコンクール入選作品展を見てきましたが、入賞作には、合成写真(好意的に表現すれば、作る写真)と分かるものを 散見しました。全体の10%くらいでしょうか。時代は、確かに、それを受け入れています。
あ、フォトモンタージュだなと分かるものには、その異様な組み合わせから、20世紀初めのシュールレアリズムのテーストを感じます。確かに1つの表現でしょう。
問題は、最初に載せたような作品でしょう。フォトモンタージュと気づかせない写真。現実のストレートフォトと受け止めかねない写真。「すごい、ベストタイミングで撮っている! いい腕しているなぁ」と賞賛。これって、いいのだろうか?と考え込まざるを得ない。
ブログを見ていたら、すごくいい写真があったので、見入っていると、何か不自然、合成写真と気づく。数々のコンクールで賞を取る人のブログなのだが、残念な気がした。すると 他の作品まで、合成ではないかと疑心暗鬼になってしまう。そんなことしなくとも、いい作品を作る人なのに・・・一言、これは合成ですと断ればいいのに、と思ってしまう。
今や、写真のレタッチ加工は当たり前、写真をキャッチーにするのに何が問題かと反論されそう。疑問を感じる小生のほうが おかしいと 言われてしまうのだろうか?
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- 2013/09/10(火) 07:16:32|
- 写真の技法
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