「日展なら 写真の部もあるでしょう。」
と日展(日本美術展覧会)を観に行こうと妻に誘われる。
「写真が芸術? そう思いたい写真家はいるけど・・・・どうかなぁ・・・」
妻の言動に少々異議を唱えていた。
写真は芸術であるなどと言うのはおこがましい気がする。
そうなって欲しいが、カメラは元々画家の道具、
画家が構図を確かめる器具に過ぎなかった。
感光する物質の発見と利用で光を記録することができるようになり、
画家の道具の身(奴隷)から独立したけど、
芸術作品として認められているか・・・となると心細い。
写真は大量生産を基礎とする現代の産業構造に組み込まれている。
いまや カメラを手にすれば、誰でも写真をとることができる。
撮った作品は、同じものを多量に複製(コピー)できてしまう。
同じものが多量に流通するものに「芸術作品」として特別な価値を感じるだろうかと思う。
芸術作品として認められる作品は一つ、複製品は偽もの。
それが、我々の意識に巣くっている。
版画などでも、磨耗するので部数は限られる。
写真が どうにか「芸術作品」として流通し、人がそこに価値を見出すとしたら、
写真家 本人によるオリジナルプリントだろう。
「ネガは楽譜、プリントは演奏」
演奏してできたオリジナルプリントが かろうじて「芸術作品」と認められる可能性があるということだろう。
デジタル時代になってしまうと、「演奏」自体があやふやになる。
カメラマンが、レタッチソフトを使って仕上げた写真を、オリジナルなものとして・・・・(観る人は)評価してくれるだろうか?
特にこの頃は プロといえどもプリントは専門に任せることが多い。
一昨年だったかキャノンギャラリーで見た森山大道の写真展は、
明らかにキャノンの映像技術者たちの力がないとできるものではなかった。
サイズも自由、八つ切り、四つ切、全紙、あるはそれ以上、Tシャツにでもプリントできる。何枚でも。
どの点を強調し「写真は芸術です」と言い切れるか・・・・小生、少々覚束ない。
「日展は、まだ写真を芸術作品と認めていないのじゃないかなぁ」と妻に答えていた。

日展で展示されていたジャンルは日本画、西洋画、彫刻、工芸美術、書の5つの部門。
写真はまだ入っていないようだ。
日本ではオリジナルプリントを売買する環境に、まだなっていないのだろう。
いい写真ができ、オリジナルプリントが売買され マーケットができてくれば、
「芸術作品」ですと、胸を張ることもできるが・・・・良さを真贋する批評家が輩出しないと、それも難しい。
写真家が審査員になり、仲間の写真家を評価して賞を与えるような環境では、公正な評価などできるはずもない。
仲間内しか伝わらないような言葉の羅列をするだけで、何を言いたいのかわからないことばかり。

写真評論家というのも胡散臭い。理解不能の専門用語らしきものを出してくる。
これが日本語か?と理解に苦しむような論旨のはっきりしない文章が載る。
難しく語ることで、なにか写真の深遠を語っていると思っているのだろうか?
せめて、文芸評論で一世を風靡した小林秀雄のような評論家が写真評論にでてこないのかと思ってしまう。

ポールゲッティ美術館の写真コレクションのハンドブックを持っているが、
写真一葉ごと、簡潔で短いが、しっかりとした解説が載っていた。
おそらく正規の美術教育を受けているので、公平に写真を評価、そのときの社会情勢、歴史にも目配せして解説していた。
(目黒の写真美術館のキュレーターは、問題だろう。質問しても、満足な回答を受けたことがない。細かな薀蓄は豊富でも、本質を突いているわけではない。偉そうにのたまうが、オタクなだけ。キュレーターとは呼べないだろう。)

そんな悪態を心で吐きながら、日展の「書」の部門を観て回った。(妻のお付なので)
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期限切れになってしまった100フィート長巻のTRI-Xフィルム缶を開けて使用しています。
数年前 3缶ほど購入し 最後に残った一缶。
冷蔵庫に入れて保管していたので、問題なく使えます。
まだ、Tri-X 100フィート缶 他社のフィルムよりかなり高価、手がでません。
最後の一枚の写真は、アメリカの写真家の影響を受けたフレーミングをしていた。(それともドイツの構造派?)
真似したわけではなく、影響を受けているのでしょう。
意図的に行ったら「真似」でしょうが・・・・
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- 2017/12/24(日) 13:41:46|
- 都会の景観 Tokyo
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