夕方 䔥山賓館(ホテル)につく。
夕食は7時にロビーに迎えに来るという。
まだ2時間近くある。
フィルム・カメラを持ってホテルの近くを散策した。

ホテルの前の通り。名前は「人民路」。
昔はここが中心の通りだった。
この道の並びに 䔥山地方政府があった。
今、政府庁舎は、巨大なビルとなり、拡張された市中心路の、北の開発区に移っている。

周りの建物は変われど、この老人は そんなこと気にもせず、いまも靴直しをしている。
変わらないなぁとは思うが・・・以前はもっと沢山の職人が並び、靴直しをしていたことの気がつく。
この人が最後なのだろう。
あと何年、この光景を記録できるだろうか?

2002年ごろ来たときもここで撮影している。
そのときは 中国の古都を感じさせるフォトジェニックな場所だった。
再開発で古い家が壊され、新しい家が建つ。
キャッチーさは、段々となくなり、世界の、どこにでもあるような都市になっていく。
進歩とはそんなことかも知れません。

運河沿いの公園。
2004年ごろから整備が始まり、いまは綺麗な公園になっている。

なるべく階調性を失わないよう注意して撮影、現像もやや軟調気味現像液で現像しました。
昔 写真を始めた頃は、如何に豊富な階調性あるネガを作るかに腐心したものだが、
この頃は 暗い部分にもディテールが残り、白飽和しない写真というのをあまり見ない。
廃れてしまったのかなぁ・・・と思う。
あるいは、撮影した画像を、紙にプリントして写真をみたり、
昔のように印画紙に焼き付けて写真を見るという機会が減ったのかもしれない。
画像(写真)の鑑賞も モニター、スマホの画面になったからだろうか?
暗い部分 あるいは黒の部分が べったりと黒く潰れた写真が ブログの画像に上がっている。
たしかに、コントラストが立ち キャッチーなのだが・・・・
なにか味気なさを感じるのは、小生だけだろうか・・・?

暗い部分のデイテールがある写真も、それなりにいいと思う。
特に紙に焼く(プリント)とよくわかる。
勿論、時にはコントラストの高い、黒い部分を潰した写真も撮り(作り)ます。
それも 面白いから。

これが中国、集まってなにかするのが大好き。

明日 朝には 杭州の空港へ。
そして、寧夏回教自治区へ飛ぶ。
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- 2017/05/31(水) 17:37:16|
- 遥かなる寧夏
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朝早く家を出て成田へ向かう。

連休の終わり近く。
出国する人は少ない。

じっと搭乗の時刻を待つ。

杭州䔥山空港から迎えの車に乗り、䔥山賓館へ。
旧館の部屋に入る。
ずっと21mmの広角レンズで撮影していたが、不思議なことに人影は入ってなかった。
それでも、人の営み/気配を感じられれば それで良いではないか?
一人で廃墟を旅する心の強さは持っていない。
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帰国してから、少し忙しいときが続いた。
ようやく フィルム・スキャナーでPCにネガ画像の取り込みを開始した。
大して撮っていないが、ぼちぼち ブログに載せる予定でいる。
- 2017/05/29(月) 22:57:02|
- 遥かなる寧夏
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思考回路の違い、ものごとの捉え方、時代を経た経験の差、
日本的思考に囚われている小生には
何だ!!と面白がったり、理解不能の出来事にぶつかる。

今回 招待を受けたのはこの会社。
2003年ごろ河北省から来た人が作った会社、2010年ごろから急激に大きくなったという。
新しい事業計画を立てるにあたり、小生の噂/推薦で招待したとのことだった。
工業見学をしたが・・・設備は立派だが・・・将来的な展望を考えたとき、方向はづれていると感じた。
いずれ、競争力はなくなる。そのとき、今までの投資は損出になり、この会社を苦しめるはず。
きてくれないかとの要請をうけたが、あまりよい返事はしなかった。
董事長が「来ないか、それ相当の報酬は出す」といえば、断る人は居なかったのだろう。
色よい返事をしなかったのは小生が初めてだったらしい。
董事長は驚いていた。
小生も驚いていた。この董事長の後ろに(寧夏自治)政府の影がちらついていた。

本社ビルは、できたばかり。中国のトイレの発展形だろう。

あの董事長、この像の前に立ったら・・・どんな宣告を受けるだろう? 良い宣告を受けるか、悪い宣告か。

平羅の新興住宅街。 平羅政府は、郊外の農民の家を強制的に壊し、移住させて作った街のようだった。
アメリカの新しい町の風景とよく似ている。

ホテルの窓から見た集合住宅。
これは米国やヨーロッパの集合住宅とは趣が違う。
むしろ日本あるいは韓国に近いだろう。

古い住宅を壊し、新しく高層の住宅を作る。
再開発の途中では、このような段階の住宅街もできる。
だれにも知られない秘密の街のような雰囲気がある。
小生、傍観者だが、しっかり記録しておきたい気持ちもある。
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これも記録。

旅の記念に帽子を買おうとした。
彼の会社の女性従業員も同行。
売り手の男性は、40元だという。
日本円にして600円から700円くらいだろう。
安い! でも値切るのがここでの常識。
売り子もその会話を楽しんでいる風もある。
女性従業員が、値段交渉を始めた。ものの一分もしないうちに、
帽子は小生の頭の上に載る。
値段は半分の20元。
女性従業員を連れてくるわけである。
中国人と言え、男性は値切る交渉が下手。
なんの不満もなく被っているが、
タグが付いていない。
どこで作られたか、どんな素材か、洗濯の注意書きもない。
手の込んだつくりだが、縫製の技術は丁寧ではない。
「これ 中国製?」と聞いたが、
今は中国製も高くなり、ベトナムに縫製工場を移しているという。
「おそらく、ベトナム製でしょう。」
そんなことあるのか?
刻々と変化しているのは確か。
彼の言葉を信じることにした。
- 2017/05/27(土) 22:32:40|
- 遥かなる寧夏
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工場見学したとき見た花。

何の花だろう?か、(小生、植物の知識は乏しい。)
通訳を介し、花の名前を聞く。
中国語で花の名前を教えてくれるが、よくわからない。
すると紙に書いてくれた。
「槐」 木偏に鬼・・・これが、えんじゅか・・・
漢字が読めても、実際の花など見たこともない。

3日後の朝、迎えの車が来る前の30分、近くを散策する。
平羅の街の中心・登楼から歩いて30分くらいの場所に、新興住宅街が開かれていた。
道路の両側には、槐の並木道が続いている。


小さな白い花が 今 まさに咲こうとしていた。
あと数日したら、白い花の絨毯になり・・・さぞ綺麗だろう。

これも 槐?白い花をつけた樹があった。

葉の形は そっくり同じ。
赤い花の槐が多く植えられていたが、白い槐もところどころに見る。
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帰ってきてネットで調べたら、日本の槐は白い花だった。
中国が原産だというから、
嘗て彼の地を訪れた日本人は、日本人の好みとして、白を選び、
赤い槐を日本に持ち帰らなかったのか・・・?
あるいは、赤い槐は伝わっても、流行らず、廃れていったのかも。
黄土広原の茫々とした黄色の大地に白い花では存在感はない。
赤く強烈な色のほうが中国人の好みになっていく・・・理解できる気がしている。
「風土」がそこに住む人の感性、考え方に影響を及ぼすなら・・・
中国の黄土広原を、もし和辻哲郎が旅したら、どんな感慨をうけただろう?
だれか、続編を書かないかなぁ。
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中国のネットでは、かなり接続制限を受ける。
FC2ブログにも入れない。
閲覧制限で入れないサイトが多くあった。
勿論グーグルには、入れません。
Yahooには入れますが、ネットサーフィンしようにも、制限を受けることが多かった。
日本への連絡は Yahooメールを使っていました。
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フィルム・カメラも持参しましたが、使う機会があまりありませんでした。
(それでも 数本撮りました。)
旅行の記録なら、Sony NEX-3に純正広角レンズ(固定)で撮るのが、
手軽でいいと・・・再確認。骨董品式カメラでは・・・こうは手軽に撮影できません。
今回は、NEX-3を「カメラにお任せ」のPモードにして、画像はJPGで 撮影。
焦点も自動で合わせてくれるので、
小生の行うことは、
スイッチを入れ、液晶画面でフレーミングを確認したら、ボタンを押せばいいだけ。
メモリーの容量から3000枚以上撮影できるらしい。(フィルムなら、ほぼ一年分)
簡単だが、満足できる記録が撮れていた。
白黒フィルムは、ようやく現像しネガを得た段階。
これからフィルム・スキャナーでPCに取り込みます。
そのうち、このブログにも載せるでしょう。
- 2017/05/26(金) 15:16:16|
- 読み解く写真、心に残る写真を・・・
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夕方の1時間ほど 平羅の街を歩くことができた。

平羅という街は、秦の始皇帝の時代にも記録が残る古い歴史を持つ。
街の中心には、四方を睨み楼台が設置されている。
平羅の街は、ここから発展したということだろう。
近くを人民路が通じ、そこに平羅県の地方政府が置かれていた。
楼台が設置できる街は限られているらしい。
これが また平羅のプライドだろう。
改築され、以前より高くなっていた。

使い慣れたフィルム・カメラの50mmレンズなら、かなり近づいて撮影した気分。
気づかれないか「ひやひや」ものだが・・・・
Sony NEXの広角レンズだと、全身像を捕らえるのが限界だった。

スナップの上手な人なら、更にあと2、3歩、近づいてシャッターをきるのだろう。
その度胸はない。



人民路。
右に嘗て平羅賓館があり、その隣に平羅政府の庁舎があった。
平羅賓館は3階建て、平羅政府は5階建てだった記憶が残る。
移転に伴い、再開発され、いまは大きな住宅街になっていた。
道の反対側にある幼稚園は、改築され今も幼児が通っている。

時刻は、幼稚園の終わるころだった。両親あるいは祖父が、迎えに来ていた。

回族自治区となっているが、信仰心はあまり高くないように思えた。
イスラム経を信じるなら、酒は飲まないはずだが、宴会に現れた回族の人は、
何の抵抗もなく強い「白酒(ばいちゅう)」を楽しんでいた。

この人も回族の人かも。
寧夏自治区では羊が中心、それに寒さに強い牛の肉が続く、
豚は寒さに弱いので養豚は盛んでないようだ。(養豚場を見たことはない)
中国料理の店にも豚を使った料理は、メニュー(菜単)にもあまり載っていない。
回族の人は豚肉は食べないので、回族の人が一人でも居ると、
会食は清真料理のレストランで行われることになっている。

もともとはモスクだと思うのだが・・・・

店舗が入っていた。
- 2017/05/24(水) 11:20:26|
- 遥かなる寧夏
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日本語の通訳をしてくれた友人は、小さな会社を経営している。
経営は順調で利益は出ている。
税金を納めるくらいならと、社員の福祉厚生費になるべく回すようにしているとのこと。
時々 会社経費でパーティーをしている。
会議と工場視察のスケジュールは金曜日で終了。
社員を集めたパーティーを今日(土)行うという。
平羅郊外の農民レストランに誘われた。

車に乗せられ、平羅県の郊外の道を進む。

幹に白く石灰を塗るのは、中国の習慣らしい。虫除けなのだろうか?
この白い印がなければ・・・ドイツの田園地帯を車で走らせているような感覚になってしまう。

2台の自家用車に分乗し、すでに到着していた。

農家は、果樹園を経営、敷地内で家畜の養殖も行っている。
これは、モンゴルスタイルのパオ・レストラン。
内蒙古へ入ると、このタイプの食堂をよく見る。
モンゴル系の人もこのレストランへ来るのだろう。
冬はオンドルを焚き、夏の暑いときはクーラーを効かせて
快適な食事が取れるよう工夫してあった。

沢山のケージが並び、鳩や鶏、羊、アヒルが飼われていた。

子供は 動物たちをみて喜んでいる。さながら小さな動物園。

アヒルの鶏?舎に入り込み、
生まれたての卵をとってくる。そのまま販売しているらしい。
「どうして取るの?」と怒っているらしい。

こちらもニコニコしながらアヒルの卵 2つゲット。
鶏の卵も、日本に比べおいしいのだろうなぁと 想像していた。

レンガで造られた竈の一角に人が集まっている。

これが 羊の丸焼き。
現地では(火+考、全羊)という名の料理。
{日本語に「焼」の字はあるが 火偏に「考」の字はない)

一番おいしい部分を ナイフで切り取り、食べさせてくれた。
子羊の肝臓らしい。
薪で焼いているので、一部燻製状態。
燻製フォアグラ(そんなものあるのか?)のような味がして確かに美味だった。

柵の中で飼われていた羊だが、そのことに気づいているだろうか?

手際よく切り分け、独特のスパイスをまぶす。

10名ほどのパーティーでは 子羊でも一頭は食べきれない。

中央の空いている席が、小生の席です。
食べきらない料理は、アメリカのように持ち帰り。
USAでは、ピギー・バック あるいはピギー・パック?と発音していた。
20年以上前のことなんで・・・・はっきりしない。(piggy pack ? bag? back?)、
中国では ダーバオ(おそらく漢字で書くと打包)と言っていた。
アメリカと中国 なんとなく似ている。
杭州の中国人、北京の中国人、広州の中国人
みな同じ中国人としてくくっているが、
本当は違う文化を持つ、異なった人々ではないだろうか。
どちらも多民族国家。
アメリカ建国と始皇帝の中国建国、歴史の長さが違うだけ。

満腹となれば、部屋の隅に置かれた全自動マージャン卓を囲むことになる。
ルールは日本と大分違う。牌も大きい。
ルールは簡単だが、日本のルールがどこまで入っているか不明。
言葉もわからないので、まごつき、結局 50元ほど損をした。
一遊びして散会。
2組が結婚し、それぞれ自家用車を持っていた。
彼の会社の男性社員は 全てが大学卒。
給与水準は、1970年代日本に近いだろう。
勿論、持ち家である。
日本の当時より、もっと恵まれているかも。

10年ほど前 小生の通訳をしてくれた人の子供。
彼の英語は女性的、それを指摘すると、
西安の語学大学(外語大のようなものか)で習ったのはアメリカ人女性だったとのこと。
結婚し子供ができ、もう小学生一年生になるという。
早いものだと思う。

皆さんとは、ここで別れた。
明日 昼の便で 銀川空港から杭州に戻った。
- 2017/05/22(月) 13:04:31|
- 遥かなる寧夏
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招待を受けたものの、小生を呼んだ理由がどうも不明。
中国独特の「権威付け」に利用されたのかも知れないが・・・
まぁ、それでもいい。
小生としては、この機会を逃さず、各所の工場見学を行った。
年産 数十万トンのプラントから、数百トンのプラントまで、数箇所の工場を回ってみた。
これは 平羅県のはずれ、砂漠にできた工業区の会社を見学/視察したとき撮ったデジタル映像。

寧夏回族自治区の北半分は西を賀蘭山脈が走り、東には黄河が北上している。
賀蘭山に降った雨や雪は伏流水となり地下を流れる。
飲料水は井戸から、農業用水は黄河から、工業用水は井戸から取っているようだ。
黄河と賀蘭山に囲まれたこの地区は豊かな地帯である。
一直線に植えられた並木を見ていると、
ドイツの田舎の村を、車で走り抜けているような感覚を覚えた。
鉱物資源にも恵まれ、労働者の賃金は沿岸部の発達した地域とほぼ同額の高水準、
大阪万博の頃の給与水準まで上がっているように感じた。
沿岸部に比べ、物価は30%から50%ほど安いように感じる。
住宅の取得費に至っては4分の1くらいではないだろうか。

黄河をわたり、賀蘭山の裾野を目指す。

やがて車は砂漠地帯へと入っていく。
道路は アメリカのハイウエーに似る。
あたりは、ユタ州の砂漠を走っているような風景に変わっていた。

工業区のひとつの工場に到着。

砂漠でも賀蘭山の伏流水は豊富。井戸を掘れば水は出てくる。
工場内は緑地化することが義務づけられているようだ。
植林が始まっていた。

大きなプラントでは、内部の重要な部分の撮影は(礼儀として)控えたが、
小さなプラントでは、面白いと思ったら、デジタルカメラで記録していた。
フィルム・エバポレーター装置が3セット設置されていた。
生産している製品には不似合いなほど高性能/そして高価な装置を使っていた。
違う形式のもっと安い設備でも対応できるのに~~
装置の価格を聞いたが、日本の同等機種の4分の1の価格だった。
これも驚き。

寧夏は石炭などの鉱物資源は豊富で、発電は盛ん。
電力と水と地下資源、それに特化した工業製品は、世界規模で競争力を発揮できる。

寧夏砂漠の地下に眠る水と鉱物資源を利用してこの工業区は成り立っている。
その砂漠に満月が昇ていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
会社を卒業し14年以上の月日が流れている。
だいぶ頭はもうろくしたが、まだ、おそらく この分野では一番の知識と見識を持っていると・・・自惚れている。
彼らがほしいのは、その知見だろう。
小生の年齢を考えたら、
楽しく遊べる時間は、もうそんなに残っていない。
好奇心に駆られ中国の工場視察をしているだけなのだが・・・・
小生の知識、見識 どこまで生かせるだろうか?と考えてしまう。
せいぜい頭が働くのは あと5年だろうと、帰国して妻に言ったら、
あなたは元気だから(中国に行ってみたら)・・・・・と励ましてくれた。
10日間の不在で、「亭主元気で留守がいい。」に気づいたのかなぁ。
帰国するとき、
通訳からも一言、
「もう一度 来ることになると思いますよ。」
- 2017/05/19(金) 10:23:43|
- 遥かなる寧夏
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10年ほど前、関係した会社の董事長から、
招待するから是非来て欲しいとのメールを受け、
寧夏回教自治区へ飛んだ。
各社参入、群雄割拠の状態。
それが今、大きな変動に見舞われているようだ。
4日間ほど
小生にとっては退屈な会議と
数か所の工場見学が待っていた。
会議に参加し、受けた質問は一つだけ、
今の状況(中国の生産方式)で高品質な製品を作ることは可能かということ。
それは無理と回答しただけ。
会議の合間の昼食にも酒が振る舞われ・・・さすがに飲むのは役職の上の人のみ、
夜には、また酒宴が待っていた。
閑を見つけ街をぶらぶら散策したかったが、
なかなか 果たせない。
必ず通訳が付きまとっていた。
ようやく平羅の街にある寺へ1時間ほど散歩する時間がとれた。
道教と仏教の融合したお寺だったが、ほぼ道教寺院に近い。
2002年頃にも、この寺院を拝観したことがあるが、
見違えるように綺麗に整備されていた。



東京の街にいても違和感のないハイヒールを履いた若い女性が、流行りのスマホでセルフィー。
迷彩服(軍の放出品か、安いので)が流行りだった頃の女性の姿が懐かしい。
ほんの14年前のこと・・・なのだけど。

これなど、中国の方が切り取りたがるフレーミングだろう。(真似てみました・・・ほかにアイデアも浮かばないので)



2002年に来た時は、上の回廊を歩き、広がる平羅の街を見た記憶があるが、
今回は登る階段を探すことはできなかった。

宗教はアヘン・・・のはず。
若者の心も、徐々に 昔の風習/習慣に 戻ろうとする意識が芽生えている?のだろうか。
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レンジファインダーカメラも持っていったが、
時間的な余裕が少ないので、
主に撮影は ソニーのデジタルカメラ NEX-3 E16mm F:2.8 カメラ任せのPモードにし、JPGフォーマットで撮影した。
レンズ交換はせず、全て16mmレンズ フィルム・カメラなら24mmの(小生にとっては)超広角レンズ 一本ですべて通した。
-----------------------------
未だフィルムカメラを使っている小生を見て、
通訳、「デジタルとフィルム どちらの方が 綺麗に撮れますか?」
「それは デジタルの方だよ」
通訳、「では なんで(フィルム)撮る?」
「それは、小生が化学者だから。」
通訳、「もうこの頃は デジタルカメラも使わない、」
と言って、手にしたスマホを見せ
「これで 撮っています。」
と笑っていた。
まあ、そんなものだろう。
写真が撮れるという驚き・楽しみを知らない人が、増えていくのだろう。
簡単に どうにか 絵が撮れてしまう・・・
簡単にできることに価値は見出しにくい。
そりゃそうだ・・・
フィルムに画像が潜像となり記録される!!
それが、驚きの原点だった。
撮れること自体に驚き、何とか画像を記録しようと頑張てみる。
それが 楽しい、簡単に撮れてしまうデジタル、小生はやはり好きになれそうもない。
ただし、必要と思ったら使いますが・・・
- 2017/05/17(水) 21:17:08|
- 遥かなる寧夏
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写真に付ける題は大事、それで写真の味わいが違てしまう という。
そしてどんな状況かどんな人か、くだくだと説明して、写真を見せる。
撮影意図に沿うように誘導し、見る人を「ほぉ~~」とさせたら成功だろう。
うまくいけばいいが、魂胆ありありの軽薄な説明だと、写真まで嘘くさくなる。
「対決」

この人が どんな人か、
どんなバックグランドを持った人か、説明は抜き。
小生がこの人に感じたもの。
そして写したもの・・・・
この写真、「対決」がふさわしい。
-----------------------------------------
明日 朝早く 家をでる。
おそらく 暇を見つけて 写真は撮るだろうが、現像はできない。
家に帰ってきてからのことになる。
しばらく このブログ 更新できません。
20日過ぎには 再開できるでしょう。
小生の新たな「対決」/「挑戦」が 彼の地で待っている。
- 2017/05/05(金) 18:14:53|
- 読み解く写真、心に残る写真を・・・
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フィルムは 一コマごと感度を変えて使うことも、
一コマごと現像液や現像条件を変えて現像することもできない。
同じ露光で撮り、同じ現像をしたはずなのに、
現像法を、二段現像にすると、結果は予想を裏切り、「おゃ」と思うコマが混ざってくる。
大崎で撮った写真。

更に50mくらい歩いて撮った次の写真。

どちらも赤フィルター(二絞り)を付けている。
露光は同じなのだが、印象はガラッと変わってしまった。
二つの現像液を使った二段現像法、面白いが、どう制御できるかわからないでいる。
趣味で遊ぶ陶芸のようなものか?
形はできた、釉薬もかけた、
でもちゃんとした焼き物になるかは、焼成する窯の火で決まる。
あとは神頼み・・・
まぁそんなこともないが、
露光のちょっとした差、被写体の光の当たり具合が ネガに大きなトーンの差を生み出している。
これで 当分飽きることなく遊べそう。
- 2017/05/04(木) 08:52:11|
- 都会の景観 Tokyo
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綺麗な花を、綺麗に撮る。 それは、当たり前のこと。
この頃のデジタルカメラは 簡単にそれを達成することができる。
美しい花を探す。形の面白い花を探す。
ただそれだけ。
撮りたいものが見つかったら、光を読む。
そして、アングルを考え、フレーミングに凝る。
更に 背景に凝ったり、レンズに凝ったり、カメラに凝ってみる。
しかし、撮り方のバリエーションそんなにたくさんあるわけではない。
20もないだろう。
小生はせいぜい2つか3つしか思いつかない。
思いつくバリエーションが少ないので、
誰かがすでに撮った、似たり寄ったりの花しか撮れない。
そんなに綺麗な花を撮りたいのか?と自問する。
もう厭きた。
あと何年も写真を撮れるわけでもない。
そう思うと、すっきりする。
汚い花を撮ろう、不気味な植物を撮ろう・・・・と思っている。
白金の自然教育園で先日撮影した植物紋様。



八つ手がこのように撮れるとは予想しなかった。好みのカット。


これも 予想外。
次回はストロボを一発焚いて撮ってみたいと思っている。
そのとき どんな表情を見せるだろう・・・と思うとワクワクする。

(Ⅵ)軟調現像液と(Ⅱ)硬調現像液の二種類を使い、二段現像している。
ネガの階調性 予想を超えるカットが たくさん出てきた。
勿論、駄目なカットも それだけ多くなるが、この現像法 面白い。
-------------------------------
フィルムに記録された銀画像は、
フィルム・スキャナーでPCに画像を取り込むとき、
ネガとしてあるいはポジとして取り込んでみた。
レタッチソフトを駆使すれば、このなトーン作れるかも・・・と思うが、
それでも、フィルムで撮ることに、楽しさを感じているのだから、
趣味として最高だろう。
綺麗は汚い、汚いは綺麗。
- 2017/05/03(水) 14:03:35|
- 樹、草、花
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長い商店街。
関東大震災の後、宅地の造成が進み、
移り住んだ人とともに商店街ができていく。
祖父の家も震災の被害にあい、そのご都内を転々としたが、
昭和の初期に戸越に土地を求め家を建てたとのこと。
目黒川沿いの大崎地区には かつて印刷やメッキを扱う小さな工場が沢山あったが、
それなども、神田などの下町から、震災を逃れ移り住んだものだろう。
今は再開発され高いタワーマンションなどができ、大崎は、様変わりしている。
しかし、この街、戸越銀座は 見かけ上あまり変わっていない。
古い店舗は、違った商売の店舗に変わっていくが、
下町の商店街であることに変わりはない。

子供の頃に比べ商店街を行き交う人の数は大幅に減っている。

年齢層も高くなっている。

少々取り残された感じがする。

大型ショッピングセンターができる広い土地はないが、
それでも、スーパーマーケットがあり、
そのあたりには往時の人だかりができていた。

(Ⅵ)+(Ⅱ) 二つの現像液を使った二段現像でネガを作っています。
- 2017/05/02(火) 08:09:37|
- 都会の景観 Tokyo
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旗の台の昭和大学病院へ一か月ほど毎日散歩した。
いろいろなルートを考えたが、最短で行くとなると、
戸越から中延へ抜け、旗の台に行くのが一つの選択肢。
もう一つは 戸越銀座商店街を突き抜け、中原街道に突き当ったら曲り、
旗の台を目指すルート。
最短ルートでは面白くないので、途中横道に入り、パチパチと写真を撮る。
時間はその分増えるが、それも面白い。
これは、中延を抜けるルートで歩いたとき、中延近辺で撮影したもの。

都営地下鉄の中延駅は、第二京浜国道沿いにある。
国道をまたぎ大井町線が走り、高架には中延駅がある。

中延駅前の中延商店街のアーケードを抜けると、
池上線の荏原中延駅の駅前にでる。
アーケードの長さは300mくらい、それほど長くない。

池上線も、大井町線も 旗の台の駅で交差する。
電車を利用するなら、戸越公園か、戸越銀座の駅に出ればいいが、
急ぎでないなら、歩くのに限る。
中延商店街のアーケードの前まで来ると、道の先に昭和大学のビルが見えている。
そこが旗の台、兄が入院している病院がある。

これは振り返り、中延駅の方向を見て撮影。
----------------------------------
軟調現像液(Ⅵ)と硬調現像液(Ⅱ)を使い、二段現像してみた。
不思議なトーンになる。
最新のレタッチソフトを駆使すれば、
こんなトーンの画像を作ることができるかもしれませんが、
小生はChemist です。
フィルムにこだわりを 持っています。
レタッチソフト依存症にはなりたくない。
なんとなく偉そうだから、
「あくまでもストレートフォット」と言い訳をしています。
本当はAlchemistになりたかったが、
Chemistどまりの才能しかなかったということでしょう。
- 2017/05/01(月) 14:57:41|
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