散歩するのは 住んでいる品川区内が ほとんど。
何度も 同じ場所へ行くので、段々とシャッターを押すことが少なくなる。
それでも、何か新しい発見、
違ったフレーミング(切り取り方)、
あるいは今までとは違ったアプローチに気づくと、
試してみる。

1月18日 荏原七福神巡りで訪れ、この場所で撮影している。
そのとき、R72フィルターで空を落としたらどうだろう?と思っていた。
ただそれを試したくて、散歩の脚は西の方角、西小山八幡へ向かっていた。
いい写真は撮りたいが、
以前撮ったのとは違う写真が撮れていれば、それだけで満足している。
影響は受けることがあっても、他人の真似はしたくない。
手慣れたキャッチーな写真、綺麗な写真の再生産もしたくない。
そんなことでも考えて撮らないと、
誰かがすでに 同じような写真、似た写真を撮っている。
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- 2017/01/31(火) 14:21:24|
- 散歩
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年が改まり早一ヶ月が過ぎようとしている。
今年はどんな写真を撮ろうか・・・・思い悩んでいる。
写真が嫌いなわけではない、好きだ。
散歩に出ればなにがしかシャッターを切っている。
だが、これでいいのか?という思いもある。
高邁な志も、プロのような覚悟もない。
冥土へ渡る前の単なる暇つぶし?
・・・・と自虐的に考えてしまう。
街を歩いて撮るのが基本の、お散歩カメラ。
たいした写真も撮れないが、
受け狙いの、パパラッチのような悪趣味な写真は撮りたくない。

建設中のビルを見るとシャッターを切る。


光と影の作る世界を盗っている。
人の姿/顔を大きく盗み撮りするより、
人間の姿/存在を微かに予見できる程度の写真で満足している。
4年ほど前、戸越公園の一本の百日紅に注目し、一年間撮り続けたことがあった。
理屈を知らないと使いこなせない純機械式フィルムカメラを持って
百日紅の樹のそばで右往左往している自分がいた。
確かに勉強になった。
理屈不要、直感で撮ればいい「デジタルカメラ」は、小生の気質には合わないようだ。
今年も 機械式フィルムカメラを持って散歩。
なにか対象を決めて、一年撮ってみるか・・・・という気になっている。
さて、何を??
- 2017/01/29(日) 12:17:29|
- 映し出された世界
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イヌシデは目立つ樹ではない。
ごく普通、見過ごされるほど当たり前にある樹かもしれない。
白金自然教育園でも見ている。
しかし、自然教育園では、樹の周囲をぐるぐる回り、フレーミングすることはできない。
鴉が一羽止まっていた。

夕方の空。
空に露光を合わせシャッターを切る。
樹の幹のディテールを出そうと三絞り分露光を増やしたカットも撮る。

帰宅し すぐにフィルムを現像する。
三絞りの露光とフレーミングを少し変えただけで 写真表現が全く別ものになっていた。
何に注目するかが出発点。
そして、注目した被写体に合った適切な撮影と
適切な暗室作業ができるか否かが
写真になるか否かの分岐点だろう。
うまくいくときもあれば、駄目な時も。
予期せぬいい結果がでると・・・それはうれしい。
まだイヌシデ 撮りようはあると・・・・思う。
R72フィルターを通して撮影してみた。

思い描いていたようには撮れていない。
これなら、Y2フィルターで撮影し、ソラリゼーション現像したほうがいいかなぁ??

樹の幹の質感は捉えたと思うが・・・・キャッチーではない。
難しいものだと思う。
でも、まだ、撮りようはある。
- 2017/01/26(木) 12:56:03|
- 樹、草、花
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樹の寿命は、桜でも80年程度だという。
イメージからすると意外と短命。
一方、背の高い樹は長寿命という。
イヌシデの幹は太いし、高くなる。
桜よりは長寿だろう。

このイヌシデに出会ったのは、去年の10月中頃。
光は明るく幹に当たっていた。
普通の変哲もない樹に見えたが、
呼び止められる気がしシャッターを切っていた。
現像が上がり、ネガをPCに取り込む。
明るく写っているが・・・アッと驚いていた。
-------------
桜は短命な樹。
春先に淡い白い花を咲かせると、一瞬のうち、愛着に散っていく。
80年もたつと枯れ、倒木となり、土にかえっていく。
土地の記憶にはならない。
江戸時代、御殿山は桜の名所だったが、
今はその面影もない。
イヌシデは地味だが、しぶとく生き延び、土地の記憶をため込んでいく。
古木の異様な姿に、人知を超えた「何か」を感じ、畏怖しているのだろう。
荏原七福神めぐりの最後の札所。
これが撮りたくて、歩いてきたのかもしれません。
まだ、この樹、撮りようはあるとおもう。
- 2017/01/24(火) 12:28:39|
- 読み解く写真、心に残る写真を・・・
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午後ぶらりと散歩に出る。
空を見上げると快晴。
去年行った荏原七福神めぐりでもしてみるかという気になった。
大井の街めがけ足を進める。

途中、区役所前に広がる中央公園の白木蓮の蕾が膨らみだしていた。
この辺りは西品川となったが、昔の地名は何だったのだろう?
下神明?蛇窪?
下神明駅近くに、嘗て大間窪小学校があった。(父と叔母の母校です)
今は小中一貫校になり、地域の記憶とは異なる校名になっている。
この辺りは、大間窪だったかも。

大井の街に入る。
古くはこの地域、権現と呼ばれていたが、
地域の記憶は、この神社に残っているだけかもしれません。


二番目の札所を目指し、二葉町へ入ると、ドキッとした看板があった。

二番目の札所 東光寺に到着。
屋根はふき替えたが建物自体は350年ほど昔のままだと寺の人は言っていたが・・・
道路から少し入るので目立たないお寺さん。

寺の前の道を何回も通っているはずなのに、昔の記憶にはない。

筋向いのお風呂屋は、しっかりと昔の記憶に残っている。
建て替えしていないと思う。
とすれば、かなり古い。

南に下り、西大井へ。この道 もっと狭かったと思う。
道の先のビルは西大井駅近くのニコンの工場。
おそらくこのカメラとレンズは そこで製造されたものでしょう。
50年近く前の製品ですから。

更に南下し大田区、山王へ入る。

馬込文士村をかすめて歩く。
この辺りは 西大井(品川区)と山王(大田区)の区界。

如来寺(西大井)にようやくたどり着く。


何回か撮影しているが、手持ちではなかなか難しい。
無断で撮ってしまったが、
いつか 許可を頂いて撮影してみたい。

北西に歩き、上神明・天祖神社へ。
下神明近くにも天祖神社があるが、
おそらく、こちらが上位にある神社だろう。
下神明近くに「蛇窪」と呼ばれた場所があったらしい。
それと関連しているのか、上神明・天祖神社には「蛇」が祭られている。
小さな社の前に小さな池、左右に蛇の像が置かれているが・・・・あまり撮りたいとは思わない。
代わりに、昨年の暮れ撮影した蜜柑を、今度は広角レンズで撮影してみた。
やはり、「傷だらけのゾナー」のほうが いいと思う。

第二京浜国道を渡り、立会川緑道を歩き、大井町線荏原町駅を目指す。
駅前の法華寺が次の札所。
本堂横の咲いていた梅を接写・・・・40cmくらいまで近づいて撮影したのですが、
デジタル時代では、もはや接写したなどと言えません。

すぐに、お隣の旗が丘八幡へ。七福神には入っていないが、来るとシャッターを押している。



初詣の後は節分です。
次のランドマークは、旗の台にある昭和医大病院ビル。
高いビルを見ながら足を進め、
中原街道を渡り、病院を横目に見ながら、
両側に桜の樹のある立会道路を東急目黒線(目蒲線だったのだが・・・・)西小山駅めざして歩く。

途中で左に入ると、6番目の札所、麻耶寺に。
ちょっとこの樹はシュール。
なにか撮り方に工夫があってもいい。
まぁ、次回じっくりと・・・・




西小山八幡は麻耶寺にほぼ隣接していて、斜面を登ったところにある。

神社は 少し高くなった見晴らしのいい場所にあることが多い。
昔風に言えば品川の海から一里ほど陸地に入った高台にある。
浜から立会川に沿って歩けば一刻(二時間)で着いたと思う。
海抜は品川神社の富士山の頂上より高いだろう。
もしかすると、目黒川沿いの丘陵、御殿山、池田山あたりより高いかも・・・・
このまま南西に歩けば、大岡山につながる。
品川区で一番高い所かも・・・・・
嘘か真か、そんなくだらないこと考えながら散歩しています。
- 2017/01/22(日) 13:12:29|
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神宮外苑、絵画館前で、富士山を見たのに触発されたのか、
散歩の脚は品川神社に向かっていた。


今年初めての富士(塚)登山に挑戦。

登頂成功。
頂上からの雄大な眺め。今回は赤フィルター(R2)を忘れずに持ってきて使用した。
思ったほど効果は出ていない。 R72フィルターのほうが良かったかと反省。
今年あと何回登れるだろう?
いや、そんなこと考えるな。
体力のある限り挑戦は続く・・・その時はR72フィルターを持参しよう。

富士には月見草なのだろうが、冬の季節、花そのものも乏しい。
ようやく赤い花が咲いているのを見つけた。赤い椿か?
山茶花はピンクという思い込みがある。
それに膝くらいまでの灌木という先入観もある。
小生の背より高い木だったので、勝手に椿だと思てしまった。
山茶花と椿 どう区別するのだろう?
些細なことが重要な秘密の扉を開けることも、
些細な区別が、重大な過ちになることもある。
それが分かって楽しめることならいいと思うが・・・・。
人の肌を 白、黄、黒で分類し、迫害・偏見を募らせた人類だもの・・・・
ご用心。
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真っ赤な椿と思ってシャッターを切ったが、
現像し、ネガをPCに取り込むと、白い花になっていた。
フィルターは使っていない(実際にはUVフィルターがレンズ保護についているが)。
花弁は灰色に写ると思っていたが、予想は外れた。
フィルムの特性だろう。
花弁は、赤外光を吸収せず、反射、透過していたためと思う。
眼には見えなくても、フィルムの眼には見えていた。
人間の眼で見えているものとは、一体何だろう?かと思う。
- 2017/01/20(金) 10:07:12|
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午後2時過ぎになって散歩に出る。
迎賓館を見たくて四ツ谷へ。
庭園を散策するなら無料だが、迎賓館の中に入るのは千円の料金がかかった。
警備の人数はかなりのもの、経費は掛かっている。
維持するだけなら、公開しない方が経費かからないかも。
館内は撮影禁止。
カメラを首からぶら下げていたが、レンズにキャップを付けるように指導された。
外国の要人が来たときには、使用されるので、国家機密が詰まっているからだろうか?
国家の財産、機密事項がなければ、撮影自由が原則。
外国の博物館、美術館で、撮影禁止はなかった。
庭園は自由に撮影できる。

高速シャッターで水の動きを止めるか、スローで流れをだすか・・・迷う所。
勢いを重視して1/250秒にした。

月を写したくて、少し露光を切り詰めて撮影。
赤フィルターで空を落とせたら、違った光景が広がっていたと思う。
フィルターを持ってくればよかった。

迎賓館を出たのは4時ごろ 日は傾き夕暮れ時、千駄ヶ谷の駅を目指し、絵画館前を歩いていた。
前方に富士山が見える!
富士山のシルエットを消さないよう露光を切り詰めて撮影した。
- 2017/01/18(水) 09:25:11|
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写真っていいなぁ、もう一度写真を撮ってみようと 思い立ったのは、
2001年9月、出張に、何の気なく古いNikonのカメラを持ち出し、
ベルゲンの街でカップルの姿をスナップしたときから。
それからは、撮っては考え、考えては撮るの繰り返し。
目の前の現実は、写真に撮られるため存在わけでも、
記録し保存するために存在するわけでもない。
しかし、人は、その眼前の光景を、切り取り、記録する。
記録されたものはシンボル・仮想現実(1960年代には共同幻想なる言葉で表現したと思う)となる。
人は、その写真を見/読み、心の中でその場を再構築/追確認する。
シンボル(仮想のもの)を操り、現実を再構築する(共同幻想)能力を獲得したことは、
人類の大きなアドバンテージだったろう。
乾季の時、どこへ行き、どこを掘れば水があるか、
いつの時期 どんな獲物が現れるか、
何を利用し、どのように使えば、飲むかことができるかは、狩りを成功に導けるか、
洞窟に描いた画や言葉(仮想現実/共同幻想)に喚起され伝わっていく。
カメラを構え、シャッターを切る。
眼前の光景は、記録されるためにも、
写真に撮られるために存在しているわけでもないのに、
人はシャッターを押す。
押した瞬間、撮った人の 眼前の光景に対する態度が、はっきりする。
なにに関心をもち、どう切り取ったかは、シャッターを押した人の感性、知性に由来しているから。
写すのも大事だが、それを読み解く(評価する)見る人の感性、知性のほうが、もっと重要だろうと思う。
仮想現実を読み解かないと、写真は単に一枚の紙に過ぎず、そのまま屑籠行きだろう。
じっと 写真を見て、読み解いていく。(評価していく)
車載カメラで撮ったような写真もあれば、
被写体のモデルに迎合している写真も、
どうだ、旨いだろうと自慢げな写真も、
こんな素敵なところへ行ってきました、
こんな素敵な人に会いましたと、
心から喜んでいるのが伝わる写真も、
見ていると、徐々に、少しずつだが、撮っている人の姿、考え、思い、感性、知性を 感じるようになる。
共感したり、なんだこの人はと反発したり。
小生の写真の原点は やはり ベルゲンで撮ったカップルの後姿だと思う。
人物に近づき、その人の顔までハッキリ判るようスナップするのは・・・・
盗撮しているようで、やはり心理的にストップがかかる。
その場の雰囲気が 写しこまれていればいいと・・・自制する。

雷門前の浅草文化観光センターで撮影した一枚。
おそらく外国の方だろう。
ジオラマを仲良く見ている。
カメラを構えても気づかない。
暗いので、絞りはf:2に開けている。
二人の姿にピントを合わせるのが、普通だが、
それでは、盗撮だろう、何を撮りたいか?と一瞬自問する。
この場の雰囲気・・・・
二人の視線の先に焦点を合わせていた。
(勿論 ほとんど秒撮ですが)
二人の顔にピントを合わせたほうが、この写真を見た人の評価は高いと思う。
しかし、小生は、こんな撮り方しかできない。
小生にとっては 会心のいい写真。
この瞬間に出会えたお二人に感謝しています。
- 2017/01/16(月) 14:20:08|
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浅草へは 時々行くが、正月の混雑には驚かされた。
ゆったりと散歩したいと、浅草寺の雑踏を逃れ、隅田川沿いを散歩。
浅草には観光スポットが沢山あり、有名なランドマークも多い。

それを撮っていたらありきたりで、面白くもない。

なるべく、浅草を感じさせない切り取り方をしてみた。

少々焼きこんでいます。

こんな調子のトーンにできるのも、モノトーン写真のいいところでしょう。
- 2017/01/15(日) 19:19:09|
- 散歩
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家に燻っていて、これが常態化したら問題だろうと決心し、
カメラを掴み、いざ散歩。
しかし、家を出たものの、さてどこへ?
歩くコースは、東西南北 どちらかになる。
今日は少し長い散歩にしよう。
正月だし、ここは七福神めぐりだろう。
東へ進めば 東海七福神、南なら荏原七福神、北なら山の手七福神がある。
西は?思い当たらない。
山の手七福神を選んでいた。

戸越の里から大崎を抜け、西五反田の長い坂を上りきり、白金・高輪へ出る。
桜田通りを進むと、明治学院大の建物が見えてくる。

キャンパスを横に見ながら坂を降り切りると、最初のお寺、清正公に到着する。

ここは 撮りようがなくて・・・
50mmのレンズより、広角か望遠で切り取ったほうがいいのかもしれません。
清正公が 小生の七福神めぐりの最初の場所。
ここから最後の目黒不動を目指し歩けばいい。

清正公と瑞聖寺は港区にあり、家から離れているので 通常の散歩コースに入っていない。
年に一回来る、あるいはその前を通るか程度だが、

瑞聖寺が、山の手七福神のなかで 一番フォットジェニックだと思う。
(あまり来ないので・・・そう思うのかも)


妙円寺まで来ると、白金・自然教育園の近くなので、通常の散歩コースに入ってしまう。


目黒駅を抜け、行人坂の途中に大黒寺がある。
ここへは 何度も来ているので、どう撮っても過去に写したフレーミングになりやすい。
レンズの画角を替えないと、新たな視点の探しようがないのかも。

目黒川を渡り、山の手通りにぶつかる。
そこに 幡龍寺がある。
この祠に弁天様が祭られているのだが・・・なぜか気づかず通り過ぎる人が多い。
ここまでくれば、目黒不動は近い。

青木昆陽の墓を通り過ぎると、すぐに目黒不動の裏門に到着。

江戸時代、目黒川を渡っても、目黒不動の辺りだけが江戸市内の扱いを受けていたらしい。
誇らしげに石柱が立っていた。

いつもの散歩コース、桐ケ谷を抜け、戸越の里へ帰還した。
- 2017/01/13(金) 12:22:55|
- 散歩
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酒に弱くなったなぁとつくづく思う。
新年だからとそれを口実に「おはら・しょうすけさん状態」
体を動かさず、終日ぶらぶら。
4日の夕方、ようやく決心し、近くの戸越八幡へ初詣。
實は正月2日、初詣に戸越八幡の境内に入っている。
しかし参拝の長い列ができていたのでパス。
並んでいたら、参拝するする前に、俺の寿命は尽きてしまうだろう。
それくらい老人は短気になっている。
4日になって・・・ようやくかなう。


参拝し、さぁ帰ろうと、見上げると月が・・・
フォトジェニック。
帰ろうとする気が消え失せていた。

その後 勢いでカメラを抱え、
五反田の赤い灯を求めて、ふらふらと足を進める。


結局 戸越の里に帰還したのは、夜も遅くなって。
こんな生活していていいのだろうか?
まぁ、一年一回の無礼講だ。
許されるだろう・・・と、
妻とはなるべく顔を合わせないよう、
パソコンの置いてある部屋に引きこもった。
- 2017/01/11(水) 22:27:51|
- 散歩
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「現像はじめ」のネガに記録されていた2016年最後のカット。

この植物に対し特別な感情を持っているわけでもない。
なんという名前か、皆目わからない。
光の当たり方が面白いという、ただそれだけの理由でカメラを向け、撮影していた。
その人がどんな人かわからなくとも、キャッチーだなぁと思えば、
盗撮まがいにスナップしてしまう・・・・
似たようなもの、植物は抗議しないから、堂々と撮るけれど。
偶然撮った傑作写真は、
いくらもてはやされようが、偶然の産物に過ぎない。
その写真をじっと見つめ、撮った人の影/視線を探すが、見つからない。
車載カメラが捉えた事故映像のようなもの。
やがて見飽きてしまい、記憶の彼方へ消えていく。
大切な写真には、撮影した人そのものが写っている。
撮影者の眼差し、立ち位置、理解が 込められている。
安直に撮られて写真には、
安直な撮影をした当人(の知性、感性、見識)が写しこまれている。
見る人が見れば、判ってしまうなぁと思う。
だから 怖い。
「愧(は)ずべくんば明眼(みょうげん)の人を愧ずべし」
「いいよ、素敵だ」と褒めてくれる人の眼を意識し、その眼に迎合したら 堕落する。
本当に 必要なのは 明眼の人の眼。
高校の頃読んだ、和辻哲郎校正の正法眼蔵随聞記に載っていた一節。
いまも、心に残っている。
写真を再開し、11年目。
どんな気持ちでこの人はこの写真を撮ったのか?
ようやく、他の人の写真を見て、写真を読み解く眼が、
少しずつだが、できてきたかも・・・・と感じている。
「愧(は)ずべくんば明眼(みょうげん)の人を愧ずべし」
だよなぁと思う。
昨日、ようやく 今年二回目の現像を行った。
単なるジャンクな記録写真・・・・を量産しているだけかもしれないが、
今年 もう一年、写真撮り続けてみようと、思っている。
- 2017/01/09(月) 13:34:08|
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「現像はじめ」のネガに写っていた12月25日午後、戸越の里の風景。



穏やかな日だった。 仲良し家族、二グループ落ちあって、公園に遊びに来ているのだろう。
子供と男親達は、芝生の上でボールに興じ、その姿を母親たちが見つめている。
私小説にも出てきそうな光景が広がっていた。
遠景の建物は戸越小学校、その後ろには戸越公園が広がっている。

暮れも押し詰まっている。
戸越公園のほうが人影は少ない。

枯れた紫陽花の花。
正月を迎えるので、下草は綺麗に掃除され、
木々の剪定も終了している。
しかし、造園師たちも、この花だけは 残していた。
洒落た心つかいだと思う。
ようやく 本日、今年2回目の現像を行った。
来週の中ごろからは、今年の写真の掲載が始まるだろう。
さて、今年は・・・と意気込むが、たいして変わった写真が撮れるわけでもなさそう。
- 2017/01/08(日) 14:40:07|
- 散歩
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昭和40年頃までだったのだろうか?
12月になると 街にジングルベルの歌が流れ、商店街は活気にあふれていた。
しかし、半世紀も経つと、商店街の賑わいは消え、唄は流れなくなった。
そんなものか・・・と思いながら 商店街を散歩していた。

「ポイント・セール」が行われていた。
クリスマス・セールということでもなさそう。

昔なら、クリスマス・セールの時。
そのあとに続く正月の支度に商店街は人で溢れていたものだけど、シャッターを閉じた店もある。

戸越銀座商店街で見た唯一のクリスマスらしいイベント。
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今年 初めて現像したフィルムに記録されていた写真です。
例のごとく1939年製のT-ゾナーレンズで撮影。
絞開放 f:1.5で どれだけ綺麗/精細な写真が撮れるものかテストしてみました。
夜の東京をスナップするには、このレンズかなと思っているから。
「絶対非演出の絶対スナップ」 そして、ノートリミング画像です。
しかしこの「絶対」という言葉 胡散臭い。
絶対非演出とは、被写体に一切関わらず、無関心を装うということか?
絶対スナップは どう解釈すればいいか・・・・盗撮するということでしょうか?
戦前、戦争が激しくなると、「一億総火の玉になって」 とかの標語が街に流れる。
異を唱えるものは非国民のレッテルが張られ、排除される。
この精神構造には、「絶対」という言葉がふさわしい。
戦後になってもしばらくは変われない。
まだ戦前の思考から抜け出せずにいた。
これが正しいと確信すると、つい 「絶対」という言葉が口から出てしまったのでしょう。
「絶対非演出の絶対スナップ」 言葉ばかりが勇ましい。
肩の力抜いて撮ってもいいと思う。
声など掛け、了解を頂いていたら、途端に演出臭くなる。
被写体はカメラを意識するし、カメラを手にする者も、被写体の期待に応えようと身構える。
その瞬間、本当に撮りたいと思った、その場の雰囲気/その場の精神が欠き消されている。
それを避けるため、ただ、黙ってシャッターを切ってしまう。
綺麗なもの、素敵なものは、一瞬の移ろいのなかに隠されていると 思っている。
- 2017/01/06(金) 10:10:02|
- 散歩
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体力の衰え、今年は寝正月を決め込んでいたが、
家でごろごろしていると、気持ちまで萎えてくる。
カメラの中には、まだフィルムが残っていた。
正月二日の午後、とりあえずカメラを手に取り、近くの戸越八幡神社へ。

お参りを済ませ、ぶらぶらと大井町の方向に足を進めた。

大井町駅アトレのコンコースに太鼓の響きが聞こえてくる。
太鼓をたたく人の姿が、人垣の間からに見え隠れする。
撮れたらラッキー 今年の運勢を占うようなものか・・・・
目測で距離を合わせ、絞とシャッター速度を決める。
カメラを持ち上げ、頭の上に・・・ノーファインダーでシャッターを切る。
タイミングは、太鼓のリズム。
デジタルなら 何枚もシャッターを切るだろうが、
フィルムカメラ、一枚だけ・・・だって今年の運勢を占うようなもの。
凶と出るか、吉とでるか。
品川区役所、西品川を歩き、我が家に帰宅。
カメラの残っていたフィルムを全て使い切った。
三日の昼頃、息子がひょっこり帰ってくる。
それから おせち料理で祝宴。
お酒を飲み、またも家の中でごろごろ。
息子はおせち料理を堪能すると、夕方、帰っていった。
仕事があるようだ。
それなら小生も、今年の現像はじめをしようと、
カメラからフィルムを取り出し、現像した。
半分は12月25日 クリスマスの日の散歩で撮影したものだった。
4日になって、そのネガをフィルムスキャナーでPCに取り込む。
果たして今年は どんな写真を撮るのだろう?
段々、頭も体も動かなくなっている。
思うほど、手は動かない。
PCには、去年撮った写真、まだ整理できないで
残されているのに・・・・
写真の整理ファースト、どんな写真と気にするより、手を動かせということだろう。
- 2017/01/04(水) 13:52:43|
- 散歩
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謹賀新年
元旦、まだ陽の登らないうちに家をでて
初詣に池上本門寺へ行く。
境内には参拝の長蛇の列ができていた。
やがて空は白み始める。
列を離れ脇道を行くと、朝日が昇ってくる。
ぽっかりと空いた空間があった。

この場所を知る人は少ないかもしれない。
暗い林の向こうからは、参拝する人のざわめきが聞こえていた。
--------------------------
これはFake(偽物/嘘)物語です。
撮影データを読めば 元旦に撮ったものでないことは確か。
更に、池上の本門寺を何度も訪れ、カメラを構えた人なら、
このような写真、撮れるはずもないと気づくはず。
しかし撮影データを隠し、このようなキャプションを入れたら、
大多数の人は、池上本門寺の高台に立つと、
こんな初日の出を拝むことができると信じてしまうだろう。
この写真の唯一の救いはストレート・フォト。
これを、「池上の本門寺でみた、冬至の頃の夕日です。」(一日前だったか)
とコメントすれば、嘘、偽りはなくなる。
なぜ嘘のキャプションをつけて、
人をだますのか?
注目されたいのだろうなぁ。
更にその気持ちが高じれば、キャッチーさを求め、合成写真を作ってしまう。
昔から合成写真(モンタージュともコンポジットともよばれた)はあった。
デジタルになり、レタッチソフトもでき、作るのが容易になった。
インターネットの発達で、簡単に衆人の眼に触れることができるようになる。

しかし、こうなると犯罪に近くなる。
写真の出来は悪くない。上手だ。地震直後なのでニュース性は高い。
上手にできているから、キャプションを読んで、信用してしまう。
平時なら、人騒がせなFake写真と誰も相手にしないでしょうが・・・・
戦後 土門拳の「リアリズム写真」に触発され、(戦前のサロン調写真にたいするアンチテーゼ)
リアリズム写真運動がアマチュアの間で起きる。
「絶対非演出の絶対スナップ」など言われて、その意味の捉え方は 人それぞれ。
明快な定義になっていなかったので、終いには「乞食」写真と揶揄されるようになる。
この運動に触発され、後に日本の写真史に名を残す有能な写真家は輩出したが、運動は下火になる。
これが写真だと決めつけると、
写真表現は萎んでしまうということを学んだ。
写真は なんでもありとすべきだろうと思う。
ただ、まだ「絶対非演出の絶対スナップ」という感覚は アマチュアの心に残っている。
見たものを記録するのが写真だ という感覚があるので、
合成写真にマイナスのイメージを持ってしまう。
しかし、写真は記録のための写真だけでなく、
コミュニケーションの道具にもなれば、
美しいものを愛でる作品にもなりえる。
「写真に制限をつけるな、何でもあり。」
これが、写真表現を萎えさせないためのコンセプトだろうと思う。
写真は意外と貧弱な表現手段だと思う。
画家なら筆と絵具とキャンバスで 自由に描くことができるが、
写真は カメラに縛られてしまっている。
カメラの機能の範囲内でしか写真は写せない。
こんな不自由なことはない。
FakeだってArtになりえる。
「何でもあり」が写真。そう思わないと、写真表現は萎えてしまうと思う。
ただ、写真のコメントに、これは 合成写真ですとか、モンタージュ写真、コンポジット写真とか・・・・
ちょっと断りを入れておいてくれればいいと思う。
(勿論、見た瞬間、合成と判るものは 断りを入れる必要ないけど)
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新年 改めて、おめでとうございます。
果たして 今年どんな写真を撮っていることやら。
今年の撮り初めは三ケ日を過ぎてからになりそう。
年末の大掃除で、少々ばて気味。寝正月になりそうです。
- 2017/01/01(日) 16:02:35|
- 読み解く写真、心に残る写真を・・・
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