9月上旬 散歩していたとき撮った写真。 テーマは「水」。
立会川の水源は目黒区にあり、品川区を流れ、品川の海へ注いでいた。
長さは10kmに満たないかもしれない。
今は、ほとんどが暗渠になり、切れ切れながらその上は緑道の公園になっている。
河口付近の数百メートルのみ外に出ている。生活用水が流れ、汚いどぶ川になっていたが、近年はかなり綺麗な流れになってきた。
立会川は、勝島運河が終点となる。
黒船が来たころ、ここは砂浜で、立会川は直接、江戸湾へ出ていた。
明治の頃より埋め立てが進んだのだろう。京浜工業地帯として整備されていく。
昭和になって、再び、勝島運河が掘られる。京浜工業地帯への物資の輸送を円滑にするため。
現在は、その役目も終了、一部は再び埋め立てられ、公園になっている。
勝島運河の土手の向日葵、今年のひまわり、小さな花の品種のみ 植えられたようだ。
それが 少し残念。
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2015/09/30(水) 13:24:10 |
水辺の光景
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鯉が池の岸近くを泳いでいた。
去年の冬、105mmの望遠で撮影したことを思い出す。
鯉は、意外とグロテスクな顔をしている。
しかし、105mmの望遠で撮影すると、端正な感じに写っていた。
鱗の輝きも美しい。
広角レンズを使って切り取ったら、どうなるだろう?
3日ほど前の土曜日(9月26日) Nikon Fに24mmの交換レンズを付け、再び洗足池へ。
池の鯉を撮るため、レンズにはPLフィルター、水中から鯉の姿をハッキリと浮き出すため、ストロボを持っていった。
斜め上から撮影。鯉までの距離は1mくらい。小さすぎてグロテスクさは出てこない。
これでは、標準50mmレンズのほうがいいだろう。
もっと近づき、少し下から、鱗に向かいストロボを当てたら、不気味さが出るのでは?
池の周りを歩き、撮影場所を探す。
鯉まで約50cmまで近づく。
40年以上前のストロボ、光の範囲は35mmレンズの画角程度にしか広がらない。
ストロボを カメラから外し、斜め左から当てればよかったかも。
広角レンズなので、距離感を強調し 撮影。
鯉までの距離約2m。
これが一番シュールな感じに写っていた。
まだ、洗足池の鯉、写しようはあると思う。
水の澄む 冬 もう一度挑戦してみよう。
2015/09/29(火) 09:20:45 |
水辺の光景
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10月上旬 参加している写真クラブの例会がある。
テーマは「水」あるいは「夏」
9月になってから、テーマ「水」に絞り、散歩中も極力「水」に関係した光景を撮っていた。
両国、旧安田財閥の邸宅、勝鬨橋の水辺の写真で決まりかな・・・と思い、
帰宅し、早速PCの画面で画像をチェックする。
当たり前に綺麗に撮れているのに物足りなさを感じた・・・誰が撮っても同じじゃん。
やはりフィルム(モノトーン)に拘ろう。綺麗に撮れなくとも、小生らしさがあればいいと思い直していた。
翌日(9月21日)、洗足池へ散歩し、水辺の光景を撮影していた。
連休中、池にはたくさんのボートが出ていた。
時刻は3時半ごろ。絞とシャッター速度はこのカメラの限界。これ以上露光を少なくすることはできません。
面白いと思って撮って、あとで、がっかりする。そんな場面です。
簡単なようで、なかなか、こうは撮れないと思います。光の状態を読むのが難しい。
カラーで撮ったら、いいのでしょうね。
2015/09/28(月) 19:21:17 |
水辺の光景
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写真は 現実のコピーに過ぎない。
カメラオブスキュアの時代から、レンズを通し、キャンバスに外界の世界を投射し、それをなぞり、絵画を描いていた。
映し出された構図は現実のコピーだが、その逆は成り立たない。
写真は、現実のごく一部を切り取り、抽象化して記録しているに過ぎない・・と思えど、
それでも、カメラを抱え、散歩に出る。
何故だろうと、歩きながら、シャッターを押しながら考える。
絵画なら一点もの。同じものはできない。
写真は、何点でも同じものをコピーして作ることができる・・・・
しかし、そうだろうかという思いもある。
写真の原点は、ハンドクラフト、むしろ職人芸に近い。
年季の入った人の手になれば、同じような工芸品を、いくつも作ることができる。
一定水準以上のものを作れるようになると、プロ/職人と呼ばれる。プロ/職人が必要な分野では、プロ/職人の数も多くなる。
職人は 時とすると/いや ほとんどいつの時代も、軽んじられた。「もし、駄目なら、ほかの人に頼むから・・・君の替わりならいくらでもいる。」
しかし、匠の技術が、誰も真似できない高みに達すると、職人の世界とは別の世界が開けてくるのではないだろうか?
風景写真を撮ろうとしなくなったのは、アンセルアダムスの写真を観てからである。
40年ぐらい前だったか・・・写真集では何作か見ていたが、実際のプリントを観て、衝撃を覚えたから。
人の心を引き付けるすごみ・美しさがある。
こんなのとても撮れない。 NikonFで表現できる写真ではなかった。
今でもそう思う。
8×10インチのビューカメラを扱い、現像、印画紙への焼き付け・・・アンセルアダムスはそれを一人で行う。
習熟には気の遠くなるような努力が必要、努力しても無理かも・・・。
Wynn Bullokのオリジナルプリントも 非常に綺麗。
心が惹きつけられるのは、絵画と変わらない。
森山大道のオリジナルプリント、「キャベツ」の写真もきれいだ。
コピーに過ぎないが、コピーと軽視したり蔑んだりすることはない。
技術の高みを一歩超え、その人しかできない表現法を確立できれば、それなりに意味ができるのだろう。
フィルムの写真は、ハンドクラフト、まだ工芸の世界にある。
もう一度、フィルムの現像、最初からやり直してみようかという気になっていた。
デジタルカメラでは、ハンドクラフトの世界は極端に少なくなっている。ほとんどシャッターボタンを押すだけ。カメラの中の電子頭脳が、肩代わりして撮ってくれる。画像も、レタッチソフト任せ。レタッチソフトを使いこなすプロは出ても、さらに一歩を超える匠は出てくるだろうか?レタッチソフトを設計する技術者の掌(たなごころ)の上で、遊ばされているような、居心地の悪さを感じないか?
TRI-Xのフィルムは、高くなりすぎた。
Rolllei Retro80S あるいは400Sが、当面 使える値段のフィルムなので、それらを使い、現像液を換えて検討してみようか(使いこなすための技術開発)と思っている。
写真の原点は、他人任せしないハンドクラフト(手仕事/工芸品)によってなされてきた。
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工業化された世界では、とびぬけた製品は欠陥製品とし排除される。
もし、それがユーザーの手に渡り、再度、同じ品質を求められたら、対応できなくなる。
品質とコスト、工場生産では一番厄介な問題になる。
一定の品質のものが多量に生産できて 初めて工業製品だ。
デジタル写真は、工業製品の世界に入ってしまったのかもしれない。
誰が使っても、一定の効果/レベルが 保障されるのが 工業製品だから。
2015/09/27(日) 16:06:11 |
読み解く写真、心に残る写真を・・・
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20日 例年通り、お彼岸のお参りをした。
前日、ふらりと息子が帰ってきた。
今年の秋の墓参は 珍しく妻と息子と小生の3名となった。
天気は申し分ない快晴。
都営地下鉄 浅草線 戸越の駅で、休日の一日券を購入した。
カメラはNEX-3 レンズは単焦点のE16mm F:2.8。 ズームレンズは重くなるので あまり使わない。 フルサイズで24mm 小生にとっては超広角レンズだが・・・・レンズに合うように撮ればいい。
今回は24mmのレンズで 東京の風景を切り取るぞ、と割り切ればいい。
白山の街は、白山神社の御祭礼であった。
一週間前、小生の地元、戸越八幡の御祭礼があり、お祭りの手伝いに駆り出されていた。
神輿や山車、テントの設営など・・・大変だった思いがある。
幟も参道に設定されている。町内会の人、祭りを 盛り上げようと 努力しているが、参拝の人影はまばら。
由緒ある古い神社だが、氏子の数は減っているのだろう。 境内には、夜店の賑わいもない。
境内に、孫文の碑があった。 中国では 孫文より「孫中山」として知られている。 「中山」を冠した道路や建物もあるという。しかし、孫文は、日本で世話になった中山(なかやま)さんにちなんでつけたという。(これは、小生の伝聞、誰か確かめて下さい。) 中国の方は、中国語だと思っているようです。
「革命、未だ成らず」
日本は「デモクラシー、未だ成らず」と言うところか。
山車を引く子供の数より、親や世話係の大人の数のほうが、ずっと多い。都会のお祭りです。
これは、お祭りを離れ、墓参した寺で 撮影したもの。
こんな写真も Pモードで簡単に撮れてしまう。
昔、フィルムの時代、ニコンFで こんな写真が撮れたら 小躍りして喜んだだろう。
今 デジタルカメラを 楽しんでいる人 「あぁ撮れてる!」などと 後で感激することあるだろうか?
なんでも 綺麗に撮れてしまうし、結果はすぐにわかるので、綺麗に撮れるまで 何度もシャッターを切れるし…
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墓参りを終えたあと、近くで昼食を取り、それからはここで解散し、好き勝手に帰宅することにした。
妻は、都営地下鉄を乗り継いで、銀座の三越へ、息子は神保町で降り、古本街をふらついたようだ。
小生は、春日で大江戸線に乗り換え、両国へ行った。
両国の神社も、御祭礼だったが、まずは、隅田川へ。
人影は ほとんどない。
遊歩道をランニングする人が一人、なんとなくシュール。
撮影モードはP、ピントも自動に設定している。
カメラ任せでシャッターを押しただけ。
前の花にピントが合い、バックの遊覧船はボケて それなりに雰囲気はある。
ならばとテスト。
ピントをマニュアルモードにし、絞り優先測光にして、最少絞りを探したらf:22だった。
手前の花にピントを合わせ、撮影してみた。
パンフォーカスにはなったが、f:22まで絞ると回折現象がでるのか解像度はそれほど高くない。もう一段開けf:16くらいで使用したほうがいいようだ。
これもf:22で撮影。ピントは30cmくらいに合わせている。
しかし、デジタル時代になってレンズに絞環もなければ、距離目盛もついていない。E16mmという広角レンズなのだから、距離目盛がついていれば、オートフォーカスを外して使ったほうが便利(というか・・・オートフォーカスはいらない)と思う。
デジタルになり 絞の効果を あまり 意識しなくなくなったような気もする。全てピントがキリット決まった写真が多い。(特に デジタルのモノトーン写真に) それが普通なら 気にすることないと割り切ればいいのだろうか?
隅田川を離れ、両国駅へ戻ろうとすると 綺麗な幟とたくさんの人の姿が見えた。
国技館で秋場所が開催されている。モードはPに戻し、オートフォーカスに戻しました。
残念ながら当日券は全てsold out 売れ切れでした。
この画像はRAWで撮り、現像するときD-レンジオプチマイザーを使って処理しました。
この頃、写真関係のブログを見ると、明暗差の大き画像の、暗部を持ち上げ、明部を落とし、中間部のコントラストを上げて作った写真をよく見るようになりました。
ちょいと真似てみましたが、あまり気持ちのいいものではありません。勿論 これは 個人の感じ方です。
・・・・これが好いとなれば、常識となっていくのでしょう。
国技館の近くの旧安田財閥の邸宅が公園となって開放されている。
早速 散策をしてみた。
この画像もD-レンジオプチマイザーを使って処理しました。ちょっと無理がある。
これは 全自動でないと撮ろうとは思わないアングル。手を中に入れ、適当に数枚、カメラを振って撮影。あとは そのなかからいいショット選ぶだけ。
デジタル時代になり気楽にできるようになった切り取り方です。
液晶画面がバリアングルなので こんな切り取り方も 意外に簡単。
広角レンズで定番の切り取り方。
映り込みです。赤い落ち葉がだけが現実のもの、それ以外は虚像、ちょっとシュール。
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地下鉄に乗り、勝鬨橋(駅)に移動。水辺の光景をもっと撮りたい。
実は10月の写真クラブのテーマが「夏」あるいは「水」 夏の間、暑さに負け、夏らしい写真を撮っていない。ここは「水」を撮ろうと・・・また夏休みの宿題をぎりぎりに行っています。
トリトンブリッジなるものを渡り、隅田川へ。
時刻は4時近くになっている。
陽の光が水面に反射し、綺麗な紋様を作る時間になった・・・それが狙い。
晴れて太陽が顔を出していないと駄目だが、それ以外に撮影地点と太陽の高度も注意が必要。
光が好い時間帯は意外に短い。30分もないだろう。その時、船が通てくれないと、綺麗な紋様にならない。
偶然が重ならないと写真にならない。まぁ人間のできることは、待って、シャッターを切る位くらいだろう。
大したことをしているわけではない。
「ひまわり畑!!」 こんな場所で見つけました。撮りようがないなぁと思いながら、遊歩道を走る自転車が良い位置に入るのを待ってシャッターを切っていた。作為が強いです。
アンドレ・ケルテス風に広場の人の位置を気にして撮影してみました。
これも 作為が強い構図。 時々 自己嫌悪・・・
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汐留の駅で途中下車。新橋に近い。よく来る場所でもある。
たまご形と言うべきか、楕円と突き放すか、大都会の風景です。
人の姿はない。謎の神殿のような雰囲気がある。
ようやく人影のある場所にでる。
西洋すすき(パンパスグラス)をよく見るようになった。 これも 定番の構図だろう。
広角接写。シオサイトにあるオブジェを切り取ってみました。
E16mm フルサイズ(ライカ版)換算で24mmの超広角、特徴を前面に押し出すと、画面効果は皆同じようなものになり、最初は驚き、いいなぁと思うが、そのうち厭きてくる。
何も無理にドキッとする構図をつくらなくても・・・と思ってしまう。作為が強すぎる写真って、どうなのだろう?
もう少し、素直に撮ってもいいような気がしている。
2015/09/24(木) 00:13:47 |
都会の景観 Tokyo
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安保法案の成立を願って自民・公明の議員に投票した人はどれだけいたのか?
そんなの聞いていないよ~~と思った人も多いだろう。
その自民・公明の議員が安倍首相を選んだ。
安倍首相を 直接選挙で選んだわけではない・・・と暗澹たる思いで、国会中継を見ていた。
カール・セーガンの著書を読んだのは、20年以上前になる。
銀座の丸善 洋書の置き場に、話題の本として平積みにされていた。
題は 確か「Demon-Haunted World」だった。
カール・セーガンの死亡が伝えらえれ、特集が組まれていたのかもしれない。
偉大な「サイエンス」の啓蒙家である。
サイエンスとは何か? この最も基本的なことを、大学では習っていない。
本を むしゃぶるように読んでいた。辞書を引きながら・・・
その時初めて、自分が無意識にも獲得したScience(サイエンス)という理念(哲学)はDemocrasy(民主主義)から派生した娘のようなものであることを知る。
更にさかのぼること25年前、70年安保の時代、サイエンスとデモクラシーの関係をしっかりと認識していた理系の大学教授は いただろうか?と その本を読みながら考えていた。
「ナンセンス」の一言で おろおろしていた大学教授の姿を思い出す。
「なに 4年もすれば、学生は総入替になっている」と 嘯いてた教授もいた。(なにも変えたくない、教授の特権は享受すべき)
カール・セーガンの著書を読んで、当時の大学に「学問の自由」の精神はなかった・・・と改めて思い知っていた。
今の学生はどうだろう?? Scienceは 金儲けの道具ではない、Democracy精神の発露だ。
人間は間違いを犯す。
こうありたいという願望がある。
こう違いないと確信する。
人間の心の中には 常にDemon-Haunted している。
「確信は嘘より恐ろしい真理の敵」
思い込みというDemonに光を当て、検証し、過ちを正すののが Scienceの精神。
サイエンスとは 無明に光を当て ハッキリと正体を暴く。 Science as a Candle in the Dark
仮説と証拠(Evidence)そして検証。一つずつ積み上げていく手法がScienceである。
これが フランス革命(Democracy)によって認められ、確立した理念である。
安倍首相の心に Demonは巣食っていないか? これが正義だと頑なに思っていないか?
彼は「日本を取り戻す」と叫ぶ。
決めるときは誰が反対しようが決断する・・・自己陶酔?しているようにも思える。
しかし過去のどの時代の日本に戻りたいのか・・・いくら国会答弁を聞いても不明。
小生なら 戻りたい過去の時代などない。過去は全て人権蹂躙の世界だったから。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」
9月20日 秋の彼岸が始まった。
菩提寺のある白山へ行く。
安保法案が国会を通たことを知ったら、
戦争時代に青春時代を送った父や母はどんな感想を持っただろう・・・と思うと忸怩たる思いがある。
硫黄島の生き残り(たまたま、本土に帰還していた)とは、生前 一言も語っていない。
母から父が亡くなってから聞いた話。
安保法案を通したことで、歴史の転換点になるかもしれない。
賛成票を投じた議員が、次の選挙で落選していくか、当選するか、
父なら、母なら、賛成した議員には投票しないだろう。
2015/09/21(月) 21:33:46 |
その他
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大崎駅に降り立った時は、陽が暮れていた。
西の空には、明るさが残っていた。美しい!
首にはKievⅡのカメラがぶら下がっている。レンズは、Sonnar T 50mm F:1.5、フィルムはTri-X.がはいっている。
通路の端に寄り1枚撮影した。 ボケ防止に 露出計は使いません。記憶を呼び起こし、光の状態を読み、露光を設定しています。
しかし、記憶力は低下、撮影データ 打ち込みミスしました。
ブログにあげて・・・こんなに光入れたか?おかしいと気づき、ネガカバーを調べると、マジックで、f:2.8/125秒と書かれていました。訂正します。
カメラのKievⅡは 1951年製。戦前のコンタックスⅡのクーロンです。コピーではありません。
老体でガタが来ていますが、何回か緊急入院し命を長らえています。使うとなると、老体特有の癖があり、そっと使えば、今でもちゃんと機能します。
レンズは1939年製、これはツアイスの誇る純正50mm 1.5ゾナーです。
コーテングが始まったのは1936年からなので、極めて初期のT-コートレンズでしょう。
絞り開放でもフレアーは出ません。鮮明です。
御年76歳、小生より年寄りです。若造が先輩を使っているというところでしょう。
すでに80年近く前に 現代の使用に耐える F:1.5という明るい50mmレンズができていた。
レンズの進歩とは・・なんだろう、と考えてしまう。
2015/09/18(金) 12:15:19 |
Night walk in Tokyo
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写真クラブの例会は、新橋駅近くにある港区の施設を借りて行っている。
会は午後1時から始まるが、12時ごろまでに新橋駅に行き、早い昼食をとる。(朝ごはんが、遅いので・・・)
この日は、あまりお腹がすいていなかったので、会場とは逆の汐留口に出ていた。(食事できる店は少ない)
この看板を見ると、ついカメラのレンズが向いてしまう。 「はい、大好きです・・・」
駅前のコーヒーショップに入り、コーヒーとサンドイッチの簡単な昼食をとる。
外を見ていたら、新幹線が通り過ぎていく。
思わず反応。
0.1秒くらい待ってシャッターを押せたらよかったかも。(そんなこと、できるはずもないけど)
会合の時間が近づいたので、外にでた。
見上げると トンボが飛んでいる。
思わず ノーファインダーでシャッターを押していた。
目で見たトンボは、もっと大きかった。
さすが、超広角レンズ(フルサイズ換算で24mmは、小生にとって、超のつく広角です。)
パンフォーカスに近いし、小さいとはいえ、ちゃんと画面にトンボが収まっている。
しかし、何より驚いたのが、垂直線が出ていたこと。
なまじ ファインダー(液晶画面)を見ながらフレーミングすると、垂直線がでなかったり、水平線が傾いたりする弱点を持っています。それが、なかった。こういう偶然もあるのですね。
この頃は デジカメを持って出ることが多くなりました。
トンボの撮影、古いフィルムカメラでは、できなかったと思います。
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さて、この都会育ちのトンボ、どこから飛んできたのでしょう?
2015/09/13(日) 09:07:02 |
都会の景観 Tokyo
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土曜日に撮影し、次の月曜日、クラブの選考会で 決めたのですが・・・・
確認/同意を得るため、数日後、喫茶店で会い、候補作を見せたところ・・・不評を買いました。
「綺麗に撮れていない」 そこがポイント。
写真の構図からしたら、これが良いと思ったのですが・・・・1時間ほどもめました。
が・・・肖像権は強し。
出すならばと、練習で撮ったなかから2枚選んで、「これならばOK」
結局 押し切られた形になりました。
作品はA3の大きさに引き伸ばし、展覧会終了後は、プレゼントすることになりました。
展覧会に 出品しようとした(候補)作品は 以下の2点。
幻の候補作。
長辺800ピクセルなので、ディテールは出ていません。
来年は、もっとキャッチーな踊りを期待しています。
題は「ヤットせ~~」
「ヤット、ヤット」
OKをもらった写真は、すでに、会場運営会社、フレームマン・銀座に渡してあります。もう差し替えは利きません。
2015/09/12(土) 21:43:57 |
人物 ポートレート 踊り
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写真展の候補に選んだもの。
しかし、写真展のテーマ「感動の瞬間(とき)」とするには、少し違和感が残ると、候補から外しました。
寧夏回教自治区の観光地、沙湖で観光用に飼われている2コブ駱駝。
西域との貿易が重要であった時代、商隊を組み、シルクロードを隊列を組んで行進していったのだろう。
ここからだと、少し北上し賀蘭山を迂回、オルドス砂漠を西に進めば、酒泉に至る。
駱駝の存在感に圧倒され、シャッターを切っていた。敢えて顔を出さないよう写したほうが、ボディーの迫力がでる。
白黒のフィルムで、このようなトーンに仕上がるのは難しい・・・、いい写真が撮れたと一人、ほくそ笑んでいたが、
デジタル・カラーを見慣れた人には、なんということない写真なのだろう、芳しい反応はなかった。
デジタルになり、カラー写真が主流、銀塩モノトーン写真を見る機会が減っている。
デジタル・モノトーンもメリハリのあるコントラストの高い写真が好まれるようになってきている。
美しさも、時代とともに推移していく。
致し方なしか。
2015/09/10(木) 15:13:48 |
遥かなる寧夏
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フィルムで写真を撮る。
一本撮り終わったら、カメラから出し、現像する。
フィルムが乾いたら、切ってネガシートに収める。
それまでは、立っての作業。
フィルムスキャナーでPCに画像を取り込む。
それからは座っての作業になる。時間がかかる。
今のPCはマルチタスク、PSEを動かしているときも、インターネットに入っていける。
そこで、YouTubeに入り、音楽を聴きながら、画像の編集をしている。
この頃は、別府葉子さんの歌を聞きながら、作業することが多い。
「百万本のバラ」が 最初だった。
沢山の歌手が歌っている。聞き比べていた。
個性的な声だと、思わず聞きほれて、マウスを持つ手は止まる。
なかには、幾度も繰り返し聞いていると、厭きてくる、もういいという気になる歌手もいた。
耳に優しく、嫌味のない声が、良い。作業が止まることはない。
いつも YuoTubeで歌を聴いているのは、申し訳ないと、先日 東京でコンサートが開かれるということを知り、、ローソンでチケットを購入し、聞いてきた。
YouTubeで歌手を知り、ローソンでチケット販売、コンサートへ行く。時代は、確実に進化を続けていく。
一時代前は、メジャーな音楽事務所へ入り、デビューする。 そこにラジオやテレビがのっかっていた。
インターネットを使うと、メジャーな音楽産業経由でなくとも、個人でも成り立つ道が開けてきたということだろう。
9月4日の夕方、市ヶ谷の駅にいた。
コンサートの様子を、写真に撮ろうとは思わなかった。ただ、外出するときは、必ずカメラを持ち歩くようにしている。単なる習慣です。
思ったより、時間がかかった。
まだ 空には陽の微かに明るさが残っていた。
会場に着いたのは、開演の10分前。
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以下の2枚は、コンサートが終わり、市ヶ谷の駅で 撮影したもの。9時を少し過ぎた頃だろう。
ちょっとびっくりしたこと、面白いと思ったこと、色々あったが、まだ 気持ちの整理がつかずにいる。
あるとき、ポッと思い浮かべ、そうだったと気づくのだろうだろう。それだけ、頭の回転がのろくなっている。
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新曲で「砂漠のバラ」という歌を唱っていた。作曲・作詞は別府葉子さんのオリジナル。
歌うまえに簡単な説明がある。
「あぁ、あの石のことか・・・」
棚に置かれている石を思い出した。
土産ものとして貰ったもの。
両親は、1980年代よく外国旅行した。古い遺跡を見るのが好きで、エジプトや中国、インド、チベットを巡っている。
その時の土産だったのだろうか? だとすると、エジプト? 或はシルクロードの旅で敦煌へ行っている。その時 求めたものだろうか?
2000年頃、兄夫婦が、やはりエジプトや、チェジニアなど北アフリカへ2,3回出かけている。
当時 まだ 母が健在で、しきりにその良さを話していたからだろう。「足の動くのは60歳代」とけしかけていた。
その時、土産にもらったものかも・・・
「砂漠のバラ」 棚に置いてはあるが・・・あまり気にしていなかった。
まして、それに「砂漠のバラ」という名がついていることも知らなかった。
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2006年5月の連休に内蒙古を旅行していた。英語の通訳 一人を連れて。
見た瞬間、家の棚にある石を思い出していた。
賀蘭山の西、オルドス砂漠(内蒙古自治区)にある町に泊まっていた。
ラマ教の寺院を見に行ったとき、寺の前の広場は、様々な石を売るマーケットになっていた。
こんな ところで採れるのか・・・・
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別府さんの説明で、さっと、この石を思い浮かべていた。
あの石に違いない。
コンサートのプログラムをバックに、我が家の「砂漠のバラ」を撮影してみた。
「砂漠のバラ」の歌のオマージュとして。
2015/09/09(水) 19:20:22 |
その他
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散歩にカメラなら 軽いことに越したことはない。
この頃はデジタルカメラ、NEX-3 + E16mm F:2.8 を持ち歩くことが多い。
撮影モードはカメラにお任せのPモードにする。
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年をとると段々偏屈になる。意地悪爺さんというところか。
なに?向日葵? 「いつもあなたを見つめています」 歯の浮いた花言葉だなぁと、物事を斜めから見るようになってしまう。
常識的な、「明るい」「健康的」なイメージを覆そうと、そうではないアングル、光線の具合を探してしまう。
もっとも、散歩で向日葵を撮影するとなると、(品川区立)三ツ木小学校の裏手か、鮫洲と立会川の間に広がる勝島運河の土手に限られる。
これは 三ツ木小学校裏で撮影したもの。時刻は午後5時44分。日没まではまだ1時間くらいあるだろう。東の方向に向かってフレーミングしている。 向日葵の葉がかなり傷んできたので、それが面白いと
「シャッターボタンを押しただけ」 なのだが・・・ カメラは勝手に、「なんとなく童話風」に仕上げてくれた。
こんなんじゃないと、ストロボを立て強制発光。 ストロボを焚いたので、(空に対し)露光は少なくなったが、データーを読むと ほんの一絞り分少ないだけ。
すると、空はきれいなブルーになってしまった。
夕方の空、色温度は高くなる(これ、写真家が素人相手にする説明、少し違うが、光の不思議さを理解するにはいい譬えだろう)・・・東の空なら 青くなるのは当たり前、考えれば 予想はついたと思うが、大分ボケが回ってきた。そうは頭が働かない。
(空のブルーは偏光フィルターで変化します。空の青さや、夕焼けの赤は、レイリー散乱で理解すべきだろう。色温度は連続スペクトル/熱力学的平衡を扱った概念で、空の青さを説明するものではない。)
空の綺麗なブルーに惹きつけられ、葉の老醜に眼がいかない。花まで救われてしまった。
もっと惨めたっらしい向日葵が撮りたかったのに・・・・
カラーフィルムで撮影しても、このような写真になっただろうか?そんな疑問もわく。
NEX-3 小生の眼をたぶらかすような画像処理 していないでしょうな?
2015/09/07(月) 09:03:38 |
ひまわり
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世界の底には、世界を成り立たせている規則があると、古代ギリシャの哲人は考えていた。
その規則性を見出し、世界を理解するのが Philosophy。
彼らは、その規則性を幾何(数学)に求めた。
点と点から、直線が、その直線の一端を固定し回転させれば円が、円と直線で正方形を作図し、
直角二等辺三角形を作る、正三角形を作図し、二分割し、直角三角形を。
直線と、2つの三角形、それにコンパスを使えば、ありとあらゆる形を描けるのではと、考えていた。
やがて、製図となり、現代では、コンピュータープログラムに組み込まれCADとなり利用されている。
彼らが見出した規則性に「黄金比」がある。
今なら、中学時代に習った2次方程式を解けば、容易に解答を得られるが、
古代の哲人は、それを製図することで求めている。
黄金比(もっとも美しいと感じた長方形)が、自然数の並びの規則から作られたフィナボッチ数列と密接な関係にあることは、驚くべきことだろう。
数学者は、フィナボッチ数列と、細胞分裂、葉の重なり、葉の分岐、カタツムリの殻の螺旋・・・などの関係を明らかにしている。そして、向日葵の花も、実はその規則性に従っている。
向日葵の大輪の花を見て、フィナボッチ数列にまで思いが行く人は稀だろう。
しかし、花の並びに規則性があるのは、一目瞭然、誰もがうなづく。
並びの規則性に、美しさを感じ、生命の神秘性に感嘆する。
世界は、規則性を隠している。
カメラアイは それを見抜く。
写真を見た人が、その規則性(リズム)を無意識にも感じたとき、何故かこの写真「美しい」「素敵だ」と感じているのだと思う。
よく見ると、規則性が隠されている。それが、いい写真ではないだろうか?
しかし、美しいからと 向日葵のアップ写真ばかり見せらつけられると、感覚は麻痺し・・・もう沢山という気分になる・・・美しい写真ですね。よく撮れてます、と褒めても、心の中ではうんざりだ。
規則性が揺らぎに隠され、そっと心に忍び込んでくるのがいい。見た瞬間、一瞬 何だろう?と思う。しかし、何故か心が惹かれるなぁ・・・というのがいい。
秘すれば花・・・・画像処理プログラムを作っている技術者は、まだそのことに気づいていないようだ。まだ、アナログのフィルムを使う意義はあるだろう。(と、抗弁/弁解しておこう)
向日葵のアップした写真に飽いたら次は、向日葵畑そのものだろう。向日葵畑は、人の手で植えられ、管理されている。
自然の規則性の発露ではないが、規則性は高い。無駄な葉は整理され、一列に並び、畑全体を臨むと、心地よい規則性が広がっている。遠方に山脈や、青空に白い雲でもあれば絵になる。
向日葵一つをアップにして、向日葵畑(の並びの美しさ)を俯瞰するようにフレーミングしてもいい。
風で倒れた向日葵、そこに規則性(リズム)があれば、それもキャッチー。
しかし、そんな写真ばかり写して・・・厭きはしないか?
見せられるほうも、うんざりだろう。(写真コンクールの審査員の方、大変だろうなぁ)
植えらただけ、そのあとは水やり程度。伸び放題、養分は限られているので、花はみな小さい。
整理された規則性を見出しにくい。キャッチーな写真にはなりにくいなぁと思え、
それでも、隠された規則性(繰り返し、リズム)を見出したい(無駄かなぁと思いながら・・・いや何かある)とシャッターを切っている。
自然の中の隠された規則性を発見し、カメラに記録したいと思っている。
これも、カメラを持って散歩する理由だろう。
2015/09/04(金) 16:02:26 |
ひまわり
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色は印象色と言いますが、それが、どうも自分には不確定。
タイムスタンプを調べたら4時26分41秒に撮影していた。太陽は雲に遮られ、薄暗かったが、空には明るさが残っていた。
このままシャッターを切ったら、カメラは空の明るさを入れ、向日葵はうす暗くなる。
向日葵に合わせ、+2 露光を補正したら、空は白く無表情になるだろう。
内蔵のストロボを立てる。シャッターを押すと、カメラは自動的に絞り、シャッター、距離を合わせてくれていた。
撮影データーは全て、記録してくれる。 あとで、それを見て(読んで)なるほどと思う。 昔、日中シンクロ、それなりの写真技術を持たないと、できるテクニックではなかった。
今は、カメラに「全てお任せ」で撮影できる。
空は、見たときの印象に近い。ストロボを焚いたので向日葵の花は明るくなったが、もう少し派手だったような気がする。何より違うのは、背景がもっと鮮明で明るい印象を持っている。
画像をプリントするときは、エプソンのプリンターを購入したとき同梱してあった簡易版のPSE(プリントショップエレメント)を使っている。
これで画像の調整したら、好みのキャッチーな写真になるだろうか?
試してみた。
黄色い大輪の向日葵には、青空が似合う。 トーンカーブを調整し空の調子を落とすと…青空が見えてきた。
自分の眼で見るのではなく、常識で見ているのかもしれない。
そんな感覚が刷り込まれているのだろう。・・・こうすれば綺麗と。
向日葵は、もっと明るくしたほうがいい。 黄色(Y)彩度を上げ、明るさも上げた。
見栄えはよくなったが・・・キャッチーとは言えない。
「おや」と思える意外感はないし、いままで滅多に見ることのできない光景でもない。
彩度を変え、部分的な覆い焼きを行ってみた。
Rの彩度を上げ、明るさを調整、全体にコントラストをあげた後、マジック~~とかいう領域を指定するペンで囲い、覆い焼きをする。
ものの10分もかからず、このような写真となる。データーは全て画像にあったもの、それを利用するだけ。
他の画像からの切り貼りをしたわけではない。合成写真というわけではないだろうが・・・やはり、何故か嘘っぽい。
ソニーαのアプリに、ライト・シャフトという処理ソフトがある。残念ながら(幸運にも・・・)NEX-3ではサポートされていない。
それを使えば、後ろの塔から 光のビームを発射させることも、造花の向日葵の中心にある電球から、光芒を四方に散らすこともできるだろう。
なかったビームを画像に付け加える、あるいは、微かな光芒でもあれば、それを強調し、画像に神秘感を付け加える・・・そんなことも可能になっている。
個人的には、そんなことしていいのだろうか?と思うが、アプリが販売されている以上、需要はある。消費者には支持されているのだろう。そして、やがて、その機能は カメラに組み込まれていく。
「~~のカメラ、写りが良い」という評判がたつ。
高価なデジタルカメラは、コンピューターのかたまり、キャノン、ニコン、ライカ、フジ、ミノルタ、オリンパス・・・・
綺麗な写真の量産化の時代に入ったような気がする。
「あなたは、シャッターを押すだけ。」
2015/09/03(木) 13:01:43 |
ひまわり
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モノトーンのフィルムで撮ると、向日葵はさえない。
斜光の当たる早朝、あるいは夕方、それも逆光気味の光線を狙わないと、キャッチーにはならないのだろう。
今年の勝島運河の向日葵、花の大きくなる品種は植えなかったのか、葉と花のバランスが悪い。花が小さすぎる。
八頭身美人の向日葵より、頭(顔?)の大きな向日葵のほうが、フォトジェニックだと思う。
向日葵の鮮やかな黄の「たてがみ」は、デジタルカラーで撮れば、予定調和の綺麗な「ひまわり」となるが、それでは面白くない。
いや、まだチャンスはある。
秋が終わる頃、再挑戦してみよう。枯れた「ひまわり」もいいものだ。
2015/09/02(水) 21:52:33 |
ひまわり
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一日 杭州市の西湖に遊ぶ。
風光明媚、南宋時代には首都にもなったことがある。
折角の外国旅行、本来なら、綺麗な風景を撮るところだが・・・・
沢山の人を見ると、レンズは人の姿に向かってしまう。
西湖の美しい景色を記念にと、スマホで撮影していた。
女性の服装をみると、日本?台湾?韓国? 信州の諏訪湖で撮りましたと言っても、うなずいてしまう。
この時期、西湖に来るのは観光客で、地元の人はほとんどいないだろうという。 連れてきてくれた友人家族も、1年ぶりという。(地下鉄を乗り継いで45分くらいで湖畔に立つことができるのだが)
携帯電話を真剣な顔で操作する同輩の姿に・・・まぁ似たり寄ったり・・・「頑張りましょう。」
と心の中で呟いていた。
しかしながら、小生 携帯電話を持っていない。
15年ほど前は 持っていたが、四六時中かまわず掛かってくることに嫌気が差し、止めてしまった。
いまは、携帯電話もスマホになり、メールが主、持ってもいいかと思えど、今度は 緊急の電話・メールを 送ってくる人もいない。まぁ、いいかで終わっている。連絡は、PCのメールボックスに入ってくるし。
マウントアダプターで古いニコンFマウントのCosina 28-80mmズームレンズをNEX-3のデジカメに付けていたが、使い慣れないズームと、液晶画面でピントを合わせるのが面倒、いいと思ったら即撮るべきだろう。
レンズを単焦点E16mm F:2.8に交換した。
純正レンズなので、ピントも自動で合わせてくれる。
もっとも超広角レンズなので、2m~3mくらいに合わせておけば、パンフォーカスにはなる。
数年前、中国の人が日本にくると コンパクト・デジカメを買って、帰って行ったが、歩いている人を見ると、コンデジを持っている人を見かけない。代わりに多くの人が 携帯電話、スマホ、タブレットを手にしていた。
タブレットで撮影し、その結果をすぐに二人で確認していた。コンデジが流行らないわけである。
子供をつれて旅行中。でも手には携帯電話(スマホか?) 旦那さんと連絡を取り合えば、迷子になることはありません。
フィリピン系の方か。
中国では、男のへそ出しスタイルを よく見かけるが、女性は、少ない。
下着が透けて見えるような薄着をまとう女性を見かけ、びっくりすることはあるけれど・・・
タブレットで自分撮りしていた。これが、流行りのようです。
数年前、この石碑に木の柵はなく、自由に触れることができました。それだけ観光客が増えたということでしょう。
ごみ箱も整備され、包み紙を道に散らかす人も見かけません。柵があれば、中に入る人もいません。
西湖の散策路の清潔さ、なんの違和感も、不潔感も感じません。
豊かになれば 礼節を知る。民族が違えど、同じでしょう。
ドキとして、思わずシャッターを切る。
どういうわけか、瞬間のスナップなのに 縦位置のフレーミングをしてしまう。
これは、小生の「癖」 直せません。
2015/09/01(火) 15:07:29 |
遥かなる寧夏
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