来るたびに 寧夏は近代化されていく。
有名な観光地スポットは 整備されている。
以前は簡単にはいれた場所に柵ができ、入ることができなくなっていた。
しかし、万里の長城までは、観光地化されていない。
その長城に立ったのは、10年以上前のことである。
西夏磁器? むしろ陶器かも・・・の焼かれた窯元の跡を見たくて、霊武へ白タクを雇い向かっていた。その途中で万里の長城跡にぶつかる。車を止め、長城を目指す。

途中 農民の墓があり、それを過ぎると羊が放牧されていた。

長城に上ると、農民がゆったりと座り、談笑している。羊を連れていたら、あとは、羊が腹いっぱいになるまで、ここで談笑して過ごすのだろう。

単に近くの土を盛り上げ、突き固めただけの土塁。高さにして6から7mくらいか。放置されたまま、修復していないので、簡単に登れてしまう。

一か所に敵の歩兵部隊が集中し土塁を崩したら、一気に、主力の騎馬軍団がなかに入ってくる。
どんな戦術で 敵に向かったのだろう?
それとも、単なる 張子の虎? 「これ以上近づくな」のサインだったのか?
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あの 万里の長城 もう一度見たいと思った。
写真展の作品にならないか、という(邪な)下心がある。
寧夏を離れる日、そのことを伝えると、朝早く、宿舎をでて、銀川飛行場近くの長城跡へ、車を走らせてくれた。
長城は、幹線道路の近くにあった。開発に伴い、長城は崩され、途中で切れている。
霊武近くの長城跡に比べその分、迫力に欠けていた。


飛行機の出発時間が決まっている。30分という短い時間で、1本のフィルムを撮り終えていた。
「対象の力強さが、写真の力強さではない」 という土門拳の警句、耳が痛い。
珍しさで作品を作っている気がする。 沙湖のラクダも、珍しさ先行していた。
しかし、ラクダの周りを右往左往しながら、それなりに感じ、存在の精神をコピーした気持ちにはなっていたが・・・・
長城はどうだろう?
むしろ2004年にコンパクトデジタルで撮影したほうが・・・いいのでは?
珍しさにおんぶに抱っこだけの写真は、撮りたくないなぁ。
明日、中目黒で、阿波踊りが行われる。
そちらで、展示会用の写真をTRYしてみようか・・・という気になっている。
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- 2015/07/31(金) 21:21:21|
- 遥かなる寧夏
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友の作った工場は、平羅の元郷鎮企業(平羅県立企業)の一角にある。
上(北京政府)に市場開放政策(方針)あれば、下には、払い下げの相手が県幹部の共産党員へという(対策)がある。
私企業になっても、平羅政府との密接な関係は続く。
工場は、2Km×4kmの敷地を持つという。
以前 訪問したときは 電炉関係の工場が数棟並んでいたが、残りは荒れた野原が広がっていた。
さすがに、広大過ぎて、工場は埋まらない。平羅政府の指導?で、荒野には植林を・・・という運動が起きていた。
あれから7年、植林の効果は大きい。
埋まらなかった敷地の部分も整地し、今は工業用地として貸し出している。
友人は、その一角を借り、工場を作った。

7年たつと、荒野は、緑なす林に変貌していた。賀蘭山と黄河に挟まれた、平羅は水が豊。雨が降らなくとも、賀蘭山の伏流水は地下を流れる。井戸を掘れば、水は出てくる。

明るい林の中を撮影するなら・・・デジタルカラーが最適だろう。林の中を散策する。
液晶モニターで確認する。綺麗な写真が撮れっている。しかし、そのうち厭きてしまった。ありきたりの写真に思えてきた。
美しい写真を撮りたいのか?と自問する。
それならば、早朝あるいは、夕方、撮影したほうがいいだろうに・・・・
しかし、ここまで来て美しい写真はないだろうなぁと思う。
美しい写真にこだわる自分に出会い、馬鹿バカしくなり、撮影を止めていた。
美しいだけ/キャッチーなだけを 求めない、写真は、記録であり、その場の精神を写す(コピー)ものと思っている。
クーデルカやサルガドの写真に対するスタンスが好きだ。
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3日後 赤外線フィルムをカメラに装填し、R72のフィルターを付けて、林の中を歩いてみた。
赤外線フィルムの効果を発揮するのは、順光での撮影。
青い空と白い雲、それに生い茂った樹が、定番の構図。水は黒く潰れるので それを構図に入れるのもテクニックの一つ。

しかし、そんな教科書的な撮影、面白いだろうか?
赤外線フィルムを、林の暗がりに持ち込むことは少ない。効果を期待できないから。まして、逆光を狙うなら、普通のパンクロフィルムのほうが、綺麗に撮れるだろう。
そうは言っても・・・ものは試し、何カットか撮影してみた。林の中は暗い。R72フィルターを付けているので、f:4で1/15秒程度の露光だった記憶している。下はぬかるみ、手振れするのではと・・・緊張してシャッターを押していた。

デジタルで撮影した明るく見通しのいい林より、遠くがボーと霞んでしまったモノトーン写真のほうが、林の雰囲気を伝えているように思える。
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10年前、中国の空に飛んでいたのは飛行機だけ。鳥の姿はなかった。飛んでいる鳥は全て食べてしまったと、ブラックジョークを言っていたが。植林が進んだので、鳥が戻っきている。

友人の息子が、事務所に迷い込んだ鳥を捕まえ、喜んでいた。
勿論、数時間後、空に戻している。
- 2015/07/30(木) 15:04:01|
- 遥かなる寧夏
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「平羅の今昔」と 少しオーバーな表現だが、町を歩き この約10年の違いを感じていた。
2006年2月末に撮影した、平羅の市場の写真が出てきた。

以前 登楼近くにあった市場は閉鎖され、そこから北に約1km離れた場所に、自然発生的に市場ができていた。

リンゴを買うのは、小生の通訳。小生に同行した元商社マンから貿易の実務を習い、今では友人の会社で片腕として働いている。
杭州の友を、中国辺境の地 寧夏回教自治区に引きずり込んだのは、小生。少々、悪いことしたかなぁという思いも交錯していた。もし、引きずりこまなかったら、杭州の方で安定したサラリーマン生活ができていたろう。
でも、彼の作った会社を見学し、ようやく撒いた種が、芽を出したようにも感じている。

南で仕入れた安っぽい衣服を並べていた。

肉と言えば 羊。 食べなれているので、調理法が沢山ある。確かにおいしい。 季節が暖かくなると、肉は大きな布袋に入れられ吊るされている。(蠅対策) 客の求めに応じ 切って売っていた。

白い帽子は、回族の証。
2015年 訪れると市場は消えていた。
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今回撮影した 平羅の人たち。

10年前はまだ人民服の名残があったが、いまは、東京の街を歩いているような服装になっている。

果物は豊、バナナ以外は 近郊の農家で作ったものだろう。

焼いたトウモロコシを売っていた。残念ながら醤油の付け焼きはない。

面白いことに、電動の3輪トラックにナンバープレートはついていない。。
エンジンがついている乗り物に、ナンバープレートがつくのが決まりらしい。
中国では電動3輪車まで、どうやら無免許で乗れるようだ。事故を起こしても、逃げたら、追いようがないが、それほどの速度も出ないのだろう。1回の充電で40km位しか走れない。近郊農家の運搬手段、一家に一台が実現しているようだ。
規制緩和が 進んでいる。

回族といっても混血が進んでいるのか、ほとんど中国人と顔立ちは同じ。たまにウイグル族特有の顔立ちの人を見る。そして、その中に、ごくまれだが、すごい美形を見る。スナップ写真を撮ろうとするが・・・つい見とれて、そのチャンスを失っている。
いつか必ずとは思え、果たしてもう一度 寧夏の地を踏むことあるだろうか。
- 2015/07/29(水) 07:55:20|
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寧夏に来たという情報が 友の口から洩れたのか、何人かの訪問を受けた。
意外だったのは・・・・

工場幹部と会食するというので、平羅のレストランへ行ったとき、
「この人 覚えていますか?」と尋ねられた女性。
昔(といっても10年ほど前のこと)の記憶を手繰る。
「平羅賓館にいましたよ」と言う。ぼんやりだが、記憶が 少しずつ戻ってくる。
帰国して 当時の写真(デジタル写真)を 調べる。 この女性らしい。

小生の席は、主賓ということで、一番奥の空席になっているところ。
左の赤ら顔の人は、日本の某有名商社で部長まで務めた元商社マン。
若い時、ニューヨークの中華レストランで、中国人と間違えられ厚遇を受けた経験を持っている。でも、純粋の日本人。
世界各地を渡り歩き、貿易の知識が豊富なので、何か助言できるのではと、同行してもらった。その左が友人。
右は(チョキを出している)は平羅政府の要人、トップの人だと思う。
当時、彼女は 学校を出たばかり。回族の人間だったと思う。数年勤め、僅かばかりの金を貯めると、結婚する(多くは農家)のが普通だったようだ。給料は 月給に直すと600元~800元、近くに寄宿舎があり、朝と夕の2回は、そこで食事をとることができるという。
彼女は 小生を覚えていた。何回か、平羅賓館で 宴会を行っている。こちらが招待したり、されたりの関係だった。
外国の人間が、珍しかったのだろう。
それから12年、平羅jは大きく変わっていた。

給与水準は、驚くほど上がっていた。数年前、平羅は バブル経済に踊っていた。
浙江省の温州のデベロッパーが入ってきて、大掛かりな宅地造成を行っていた。
勿論、平羅政府と二人三脚の関係で進めたのだろう。
そのため、極端な人不足になり、工賃が急激に上がったという。バブルがはじけたが、一度上がった給与は下げられない。
ワーカーの賃金、月額で3000元にまで上がっているという。日本円で6万円弱の水準。1960年代後半の日本の新卒大学出の給与水準に匹敵するのではないだろうか?
沿岸部の杭州と変わらないか、むしろいいかもしれないと友は言う。
年は30歳を超えただろう。今は結婚し共働きしている。
経済的に豊かになったのか、皆スマホを持っていた。そのスマホで、小生の姿をパチリと撮られてしまった。
右が友人。だいぶ経営者の顔になってきた。気の優しい男なので、会社の経営ができるか、少々心配したが、どうやら乗り越えてきたようだ。
後ろに立っている男が、環境関係の責任者、前に座るのが工場管理者(工場長) 左は分析・工程管理の責任者。貿易業務の責任者は、喉が痛いと欠席していた。
工場長は西安の出身。分析の責任者は、石家庄の出身。5年ほど前のバブル経済のころ、平羅にやってきた。
文化大革命のとき、知識人(都会のエリート)は農民に学べのスローガンのもと、漢人の入植がはじまったのではないだろうか??
2000年頃、寧夏回教自治区の人口構成は回族と漢族5:5と言われていた。
経済の発展とともに、漢人の流入は増え、現在は4:6で 漢民族のほうが多いという。
徐々に漢民族に呑み込まれていくのだろう。
当時、付き合った(知り合いになった)董事長(社長)2名とは会い、会食したが、大武口の董事長には会えなかった。年のころは、小生とほぼ同じ、一時、潰れるかと思ったが、現在も続いているという。健康を害していたが・・・そんな弱音を見せるわけにいかないのが・・・中国。喰えない奴だが、嫌いな人間でもない。握手できたら、いい会社になったと思う。
この頃は、すこし、彼に尊敬の念を抱きだしている。すごい奴だと。
文化大革命のとき、湖南省の仲間数人と 寧夏に移住、その後、紆余曲折あるが 会社を作る。先見性より行動力。米国へ視察。何を求めているのか理解でき、それから会社の躍進が始まる。有頂天になり、大きく見せたいと、風呂敷を広げ過ぎ・・・・良くあるパターンにはまっていく。小生が 会ったのは このころから。必至だったのだろう、食えない奴との判断をしていた。
記念に、2人の董事長とは、それぞれ写真を撮っているが・・・隣に小生が写っているので・・・割愛します。

ホテルの手違いで、最上階の貴賓室に部屋が変わった。
応接室に自動の麻雀卓が 置かれていた。
中国人スタッフが目ざとく見つけ、それからは毎晩、麻雀の卓を囲むことになる。
麻雀牌は 大きい。ルールは、トランプに近い。簡単なルール。
日本のインフレ麻雀でない。「ドラ」はない。役縛りもない。捨て牌の川も作らない。「カン」すると、上がらなくても、点数(実際には現金)が入る。毎回清算する。だから、いつでも抜け、替わることができる。
黄色の縞のシャツの男が、貿易担当の責任者。英語ができるので、10年ほど前、寧夏に来た時、通訳をしてもらった。
今は、友人の会社の幹部の一人。女性は、7年前、事務員をしていて、会ったことがあるというのだが・・・残念ながら記憶に残っていない。
小さい女の子は、貿易担当者の娘。ソファーで寝転んでいるのは、友人の息子です。

遊びに行ったわけではありません。彼の作った工場を見学し、助言はしっかりとしてきました。
米国に製品を出荷するというので、記念に一枚撮影しました。
- 2015/07/28(火) 12:29:57|
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寧夏回教自治区の観光スポット 沙湖で撮影した写真。
昼過ぎの2時から4時ころまでの2時間、沙湖で遊んだ。
太陽の近くは厚い雲に覆われ、時折割れ目から弱い光が漏れてくる。地平線付近はボーと霞んでいた。
デジタルカメラで撮ってみる。直ちに液晶画面で確認。
思わしくない。液晶画面には、平凡な光景が広がっていた。

表情がない。

デジタルカラーで撮影するなら、太陽がまぶしいほうがいいだろう。「青い空に白い雲」と「明るく照らし出された砂丘」の対比。アンジュレーション、波紋/風紋がしっかりと出ていたら最高だろう。
これでは、まるで、淡い水彩画の世界。
小生に、淡い水彩画の世界をデジタルカメラで写す技量はない。 早々に デジタルカメラをバックに戻し、白黒フィルムのカメラを取り出す。
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フィルムになにを選ぶか、露光の加減はどうするか、現像液に何を選ぶか、現像を押すか、かっさりとするか・・・すべては一発の真剣勝負でネガを作るが、デジタル写真より 表現の幅は広いように思える。 それに 近年はデジタル技術の進歩で、ネガをスキャナーで取り込めば、フォトショップで画像の調子を整えることができる。1~5号の印画紙を揃える必要もない。印画紙に残ったネガの埃のスポッティングに苦労したが、今は、フォトショップで簡単に埋めることができる。

マミヤ-6を三脚に乗せ、絞を最少にして、T-MAX100のフィルムで 撮影したら、マイケル・ケンナ風の写真に仕上がったと思う。

飛行機の飛ぶ姿、デジタルカラーで撮ったら、つまらないものになっていたと思う。色彩は乏しかった。

観光用のラクダの群れ。面白いので、何カットか撮っている。


10月30日から一週間、参加している写真クラブ「彩游」の写真展が行われる。
ラクダの写真から1枚 選ぼうか?と思っている。ブログに載せたラクダの写真は その候補から外れたもの、あしからず。
- 2015/07/26(日) 10:20:21|
- 遥かなる寧夏
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花の撮影はあまりしない。
しかし、デジカメになり、気軽に撮れる(コストがかからない)ようになると、花にレンズを向けるようになった。
それでも、あまり、花の撮影は好きではない。
花を大きくクローズアップして撮影すると、どこで撮った花かわからなくなる。
デジタルカメラの発展で、花の撮影は簡単になった。指南書も出版されている。
・・・うまいなぁ、上手に撮れているとは思うが、手慣れた写真、続けて見せられると、厭きてきて、もういいという気になる。
寧夏では 膨大な量のデジタル写真を撮っている。
その中から、花の写真を探したが、ごく僅かだった。

寧夏回教自治区、気候がいいのは5月~8月だろう。8月の終わりごろから天候は崩れ、曇りがちになる。10月になると天気は回復し、美しい秋を迎える。鉢植えの花が 店頭に並ぶ。 寧夏の人は その鉢を買い求める。
清々しい秋の期間は短く、すぐに冬となる。

花の鉢の撮影後3日経つと、外の樹には霜が降り、白い花を咲かせていた。
寧夏の人間は、窓辺に置いた鉢の花に水をやり、次々に咲く赤い花をみて、
春節までの長い冬を過ごしていく。

春節の少し前が、一番寒さが厳しい。
-20℃にも下がる。
春節を過ぎると、寒さは緩み、徐々に暖かくなっていくが、早春と感じるのは4月になってから。

石嘴山市の大武口地区の砂漠で見つけた野アザミ、6月になれば花を咲かせるでしょう。

気温は下がり始めている。花の群生を発見したとき、なんであるかわからなかった。

近づいて、はじめて朝顔だと気づく。 朝顔は中国南部 ヒマラヤ ネパールが原産という。ネパールから青海を経て寧夏に伝わった原種かもしれない。日本の朝顔と花弁の形が異なる。
昔読んだ岡倉天心の茶の本では、朝顔にまつわる利休と太閤秀吉とのエピソードが記されていたが・・・利休の時代は原種に近いはず、垣根に植えたというがこんな感じだったかも。 江戸時代になって、朝顔の品種改良が盛んに行われたという。 紐を伝わり上に延びていったというイメージが揺らいでいる。
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今年7月に撮影した 寧夏の花。

日本でも見ると思うが、「花」に疎い小生、名前は知りません。

平羅から自動車で30分もすると沙湖に着く。昼食に町に出た後、寄ってみた。蓮の花が咲いていた。

蓮の花は 早朝撮るもの・・・・それが常識らしい。
うまい「蓮の花」を 撮りたいと希求しているわけでないので・・・これでいいだろう。
クローズアップで撮ると、どこで撮影した蓮の花か、わからない。
いい「蓮の花」の写真、小生には撮れるはずもないと、あきらめている。
- 2015/07/24(金) 11:29:45|
- 遥かなる寧夏
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寧夏回教自治区は、石炭が豊富、地下資源もあり、石炭をもとにした工場が発展していた。
中には、沿岸部での生産が環境問題からできなくなり、移ってきた工場もあった。
2000年の初めの頃、それらの工場を訪れ、生産設備を見せてもらったことがある。
日本の会社の訪問とあって、歓迎を受けた。
当時、寧夏回教自治区の電力費は0.4元/KW、日本円で6円/KWに過ぎない。日本のコンビナートでは、数社が集まり発電所を作り、会社に供給しているが、大型船による石炭の購入をしても電力費は、8円/KWではなかったか?(スチームもコンビナートに供給するので 熱の利用効率は高い。送電の距離も短いので、電力費を抑えることができる。)
寧夏の企業では、自前の発電所を持っている会社もあり、電力をもとにした工業が盛んであった。
製造技術は、古いまま、改良されていない。
しかし、将来的には、公害対策に追われ、生産の効率化を図らないと、コスト競争力は失われる。
そのくらい、空は汚れていた。
利点は、掘れば原料が手に入る、人件費は安いということに尽きる。
今回は、その時の乗りで、稼働している会社を見つけ、見学させていただいた。

驚いたことに、工場の責任者は以前会った顔なじみである。以前は事務職で、平羅政府と工場の橋渡しをする役であった。元平羅政府の役人で共産党員だろう。いまは、この工場の責任者になっていた。(董事長か??)
にこやかに 再会の握手をし、「なんでもどうぞ見ていって」・・・ということになった。

石油産業であれば、精留のためのパイプが縦横にめぐらされ、写真に撮ると、見ごたえがあるが、石炭産業は、煙突が突き出ているだけ。キャッチーな写真とはなりづらい。
冬は-20℃にも達するので、プラントは大きな建屋の中にある。
当時は、煙突から、もくもくと黒い煙がはきだされ、空を汚していた。

7年ぶりの訪問、さすがに政府も公害対策に乗り出している。煙突は封印され、廃棄ガスは、全て脱煙装置で処理されるようになった。以前は、排ガス装置を付けても、役人が来るときだけ動かし、帰ると運転を止めるという、姑息な対策をしていたが、いまは平羅政府から派遣された環境対策員(給料は会社がだすようだ)が、権限を持ち、法令を守らせている。(「上に方針有れば、下に対策あり」が、当時の中国だった、少し変化している)

友人の工場に戻るので、それほど時間はない。駆け足で見学し、素早く写真を撮っていた。
あとで見直したが、この写真が判じ物。
2系統の排ガスが出てくるのは分かるが・・・
バグフィルターの横に立つパイプ、何の目的なのか不明。排ガスは、有効利用するが鉄則・・・しかし、パイプは地下に埋設??不思議だと、頭をひねっている。
小さい配管の排ガスは、大きな埃を取り除けば、多量に発生するものでもないので、ボイラーの燃料として燃やせばいい。
なんでこんなの複雑な処理をするのだろう?? 装置の形状から、そのプロセス 推察するのは困難。
建屋に設置された設備は電炉。

この写真をみて、電炉と気づく人は少ない。
似たタイプの電炉、日本で稼働しているのは2基だろう。その会社の人ならピントくると思う。
世界的みて、EUで1基(2基持っているが、おそらく止めている)、ブラジルに1~2基、米国はなくなったと思う。
東欧、ロシアでは、複数台が稼働していると思う。(2000年頃調べた結果から類推)
運転室は、隣の建屋にあった。100インチのTVモニターの半分を使い、運転の状況を知らせるデーターが写しだされ、あと半分は細かく分割され、各場所の運転状況が写しだされていた。
監視しているのは30歳代の女性 一人。やることなく、席に座ってみているだけという感じであった。
電炉は2基あり、稼働しているところをみますか?と尋ねられたが・・・モニター画面には、炉内が陰圧になっていることを 知らせていたが・・・止めておこうと、稼働していない電炉をみせてもらった。
中国のオペレーション能力を 信じてはいない自分がいました。
実は 同じ型の電炉(エルケムタイプ)を、太原郊外に有った工場でも見ている。2002年のことだと思う。
ドイツ人が来て、設備を設置していた。運転パネルは 綺麗に運転室に残されていた。
石灰炉はユニオンカーバイド形式の最新式だった。
電炉運転の指導もしてもらえばいいのに、中国人のみで動かせると思ったのだろう、1年後、生産できなくなり、それから工場は封印されていた。
開放タイプの電炉はなくなり、今は密閉タイプのエルケム型電炉が、中国の標準になっている。おそらく既に数十基、中国内で稼働しているのだろう。たくさんつくれば技術も上がる。運転に習熟した技術者も増える。
100インチのTVモニターを見ながら、力を付け始めた中国を感じていた。
- 2015/07/23(木) 12:07:30|
- 遥かなる寧夏
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登楼と書くと 「高い建物に登る」の意と混同される恐れがある。
正確には「楼台」と呼ぶべきかもしれないが、中国の古い町を訪れると交差点に楼台が築かれている。上海の北、揚子江沿いの町 靖江だったか・・・を訪れたとき、交差点に楼台が建っていた。通訳を介し聞いたところ町の歴史は2400年という。道路は東西南北に伸びていた。
これは 小生の勝手な思い込みかもしれないが、町の格を決めているのは、東西南北の交差点に楼台があるか否かではないか?
古代から、中国の帝王、覇者は中国の大地に様々な巨大な建築物を作ってきた。
都市計画など、昔から 中国では当たり前の行為かもしれない。
最初は、東西南北の交差点に楼台を置く。
見えている範囲が支配区域、次第に発展すると 町は城壁で囲われ、ついには、万里の長城の建設に進んでいく。
平羅の隣の市、石嘴山市は、平羅より大きな町だが、歴史が浅いのか、楼台はない。
楼台のある町は、それを大切にする。寧夏の首都、銀川市でも楼台の補修が行われていた。

平羅の町の交差点にも楼台が築かれている。秦の始皇帝の時代、すでに平羅の町は知られていた。やはり2400年以上の歴史があるのだろう。
道は正確かはわからないが、東西南北に延びている。左が北で、西から東に向かって撮影していることになる。西に約10kmも進むと黄河にぶつかる。そのあいだには農地が広がっている。
東に200mも行くと、市場があり、それを北に曲り100m位行くと 平羅賓館、その隣に庁舎が建つ、やはりこの辺りが、平羅の町の中心だろう。

翌年(2003年) にはデジタルカメラで撮影。朝8時ごろ。街角で蒸かしたマントウを売っていた。自動車は少なく、自転車、輪タクが楼台の周りを行き交う。
朝の静かな町、こんな雰囲気、何故か好きだ。
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今年撮影したもの。(12年後の楼台) 朝 8時少し前の撮影。
街角のマントウ販売はなくなっていた。店舗に収まったようだ。

輪タクは消え、韓国現代(ヒュンダイ)のタクシーに置き換わっている。
小学生が道を渡ろうと左右を見ている。もうすぐ夏休みに入るだろう。
沿岸部の小学校では、すでに夏休みに入っていた。

楼台を撮影するなら、広角レンズだろう。白黒フィルムのカメラには50mmの標準(昔の呼び方です)を付けている。遠くから撮影しないと、フレーミングが難しい。

少々 ありきたりの構図になる。道路の真ん中に立ちフレーミングしたいところだが、今は、もう危険すぎる。

補修が行われ、楼台の高さ、少し高くなったようだ。
2400年前なら この楼台に兵士が登り、敵の襲来に備え監視していたのだろうが・・・現代の補修では、壁に監視カメラが設置されていた。
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楼台に関し 確かなエビデンス(証拠)はありません、単なる小生の思い込みのコメントです。
健康食品・グッズの宣伝で、散々効能を謳いながら、TVの右上などに小さく「これは読者の感想です」と書かれているたぐいのはなしです。
眉唾をつけて、話を楽しんでください。
- 2015/07/22(水) 09:03:09|
- 遥かなる寧夏
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最初は単に調査地域の一つに過ぎなかったのに、図らずも それからたびたび寧夏を訪れることになる。
中国語は 全くできない。
優秀な朋との出会いが、その絆を深めてくれた。
1992年から中国の製品が、急激に米国市場に流入。危機感を覚え、最初の調査をしている。
隣の石嘴山市には1994年12月に来ている。しかし、その時 平羅は調査対象に入っていなかった。
2001年6月再度 中国調査を行うことになり、調査の対象に入れた。

その年(2001年)9月に再度、訪問し、確認作業(調査)を行っている。宿泊したのは平羅賓館。
朝起き、賓館の入り口に立つと、100mくらい先に市場を発見した。デジカメ(調査記録用に持参)を手に取り、近づく。

食料品を売る屋台と、調理した料理を売る屋台が混在していた。

足を踏み入れた瞬間・・・懐かしい昔に戻っていた。
戦後間もない頃の日本だ・・・・幼児期の記憶が 不意に蘇える。
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年が明け2002年1月に再度、詳細な工場調査を行っている。
この時は、フィルムカメラを持参した。
どうしても、この市場が見たく、朝の1時間ほどか、スナップ撮影をしている。

平羅賓館から歩いてきて入り口付近に立ち撮影した。 車が止まっている前の道を右に行くと 平羅の町の象徴ともいえる登楼が建っている。

この時撮ったスナップ写真は、すでにこのグログで公開。
2013年12月8日の記事 「人を写すとは? スナップショットの真髄」 に載せている。
カテゴリーは「人物 ポートレート 踊り」に入っています。
興味ある方は、月刊アーカイブか、カテゴリーから覗いてください。
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13年後 再び同じ場所に立つ。

市場は消えていた。その場所には建物が建ち、登楼へ続く道は整備されていた。
日曜日、歩行者天国になっているのか、仮説のテントが張られ、混雑していた。
もはや、肉のかたまり、野菜、香料、油、日用品はなくなり、衣服や果物が並べられている。
着ている服装もこざっぱりしている。当時、スカートを履く女性はいなかったが・・・今は半々くらい。日本と変わらないだろう。

登楼へ続く道に街路樹が植えられていた記憶はない。植えられていたとしても、まだ苗木で 記憶に残らないほど小さかったのだろう。
この緑に茂る街路樹に、時の流れを感じざるを得ない。

写真を 記録と捉えるならデジタルカラーが最適だろう。
しかし、記憶に残るとしたら モノトーンフィルム・・・・だと思って、シャッターを切っている。
小生の偏見でしょう・・・そう思いたがっている自分がいることは確かです。
ですから、「写真はモノトーンフィルムに限る」と、人に強制するつもりはありません。
- 2015/07/20(月) 11:13:58|
- 遥かなる寧夏
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朋は蕭山に住む。
最初に訪れたのは1994年の暮れの頃。(使ったカメラはオリンパスのバカチョンカメラだったと思う)

蕭山賓館は、市中心路と人民路の交差点に建つ市一番の高級ホテルだった。(5階建てだったか・・・)
画面左の赤い垂れ幕の下に入り口があった。入り口は市中心路に面している。
市中心路というぐらい、ここが当時の蕭山市に中心だった。
しかし、繁華街と呼べるのは、僅か500mにも満たなかっただろう。
市の庁舎は人民路より1つ北に延びる道(運河が流れている)沿いにあった記憶が残っている。
あずき色の小型車が目立った。この車が中古となり、7年後 寧夏回教自治区を訪れると タクシーに使われていた。

2001年9月 7年ぶりに蕭山を訪れる。(使ったカメラはコダックの100万画素デジタルカメラ、単三電池で動くので、電子回路が劣化していなければ、今も使えると思う)
ここで 初めて 朋となる人物に会う。
1994年訪中したとき、今思えば、会うチャンスはあったはず。小生の配慮が不足していたのだろう。
道路は 綺麗に整備され、蕭山賓館は改築され大きなホテルになったが、それに匹敵するホテルが更に2つ 新設されていた。
ホテルの入り口は人民路の方に変更。ジュエリーショップとケンタッキー・フライド・チキンの店が市中心路に面し、できていた。
輪タクと自転車の数は減っていたが、まだ輪タクは健在で、市内2km位なら5元で乗れた。
今回の蕭山訪問は5年ぶりである。
その変貌ぶりに驚いている。
2010年ごろの画像を探したが、蕭山賓館が ハッキリと写っているものは 見つからなかった。

市中心路の道幅が広くなり、街路樹は植えられたばかりだった。鬱蒼と茂る木陰の道は失せていた。
杭州と合併し、すでに4本の地下鉄が開業。
市中心路の下を地下鉄は走る。
蕭山賓館の交差点に地下鉄の乗り場があり、そこから北へ2駅の場所に、壮麗な蕭山区の新庁舎が建設されていた。
記録なら、デジタルカラー写真のほうが、情報量は多く最適だろう。
モノトーンフィルムでは、色の情報は失せる。カラーフィルムでは褪色の問題がある。長期の保存性は問題だろう。
デジタルデーターを損なうこと保存できるなら、デジタルに軍配は上がる。しかし データーのフォーマットが未来永劫続くという保証はない。記録媒体の変更も要注意。磁気テープから、フロッピーへ、そして、光磁気デスク、、CDやDVD、さらにUSB、ハードディスク、そのたびにこまめにバックアップしておかないと、読めなくなる。画像データの形式も変化している。8ビット時代のPICファイル、まだ読めるだろうか??

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写真を 絵画のような芸術作品と 思いたい人がいることは確か。
美しい写真を撮りたい、キャッチーな写真を撮りたいと 頑張っている。
カメラは、良いほど(高価なほど、と同義らしい) 美しい写真、キャッチーな写真をものにする確率が増える。
構図に気を配り、ここぞというシャッターチャンスには、機関銃のごとく連写をする。
以前の小生もそうだったが・・・ この頃は億劫になり、飽きてきた。
機械式のカメラでは不可能に近い撮影も、最新のテクノロジーを詰め込んだ、高価なデジカメは可能にした。
美しい写真、キャッチーな写真の量産化時代を迎えている。
そうなると、今度はその反動で、うまい(上手な)写真より、いい写真が 撮りたいと思うようになる。
今回の旅行では、ソニーのデジタルカメラと、フィルカメラのBessaRを持参。
フィルムは Rollei Retro80Sと Rollei Infrared400Sを使用した。
交換レンズはデジタル用にCosina 28-80mmズームを持っていったが、ほとんど使わず、E16mmF:2.8を使用。
BessaRは50mmレンズのみで、交換レンズは持参しなかった。
美しい写真でなくてもいい。何年後かに、「いいなぁ」と思える写真を撮りたいものだ。
- 2015/07/18(土) 12:44:59|
- 遥かなる寧夏
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月曜の深夜 帰国する。
彼の地へ最初に足を踏み入れたのは、20年ほど前(1995年)のことである。
寧夏回教自治区。 北京から直線で500kmほど西に位置する。
2002年頃からは たびたび訪れ、最後は2008年頃だから7年ぶりの訪問となる。
あまりの変貌ぶりに 驚いていた。

旧市街の郊外に新県庁が移され、大規模な再開発が行われていた。立派な県庁の建物が3つ、大きな公会堂1つが威容を誇り、滞在したホテルは、12階建ての近代的ホテル。町を走る車は、綺麗な新車が多い。
7年前は、沿岸部で使われたおんぼろの中古車が多かった。綺麗な車があれば それは共産党幹部の車で、ナンバープレートは100以下のもの。
現在は、どれが、幹部の車か わからなくなっている。
部屋のカーテンを開けると 米国の西海岸の都市にいるような景観が広がっていた。
漢字の看板、外壁の材質(色つかい)、ビルの屋根の形状により、やっと、ここは中国だと、気づく。

高速道は縦横に走っていた。寧夏の首都・銀川から平羅まで1時間ほどでたどり着く。
1995年の時は、一部舗装の禿げた道を激しく揺られ、3時間近く掛かっていた。
この道路は、米国のハイウエーに似ていた。 しかし、緑の平原と並木道を見たら・・・ドイツ地方都市の郊外を走っているような気分になる。
アウトバーンではないので、制限速度は時速120kmとのことだった。
今回はデジタルカラーで500カット、白黒のフィルムで200カットほど撮影している。
写真は記録。時々の(個人的な)思いが、しみこんでいる。
以前撮影した写真と見比べたら、面白いだろう。
- 2015/07/15(水) 14:54:54|
- 遥かなる寧夏
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親子ほどの差はある。
小生が、最終ランナーかと思っていたが、15年ほど前に彼に出会う。
学んだことをバトンタッチできる後継者に、と密かに思っていた。
しかし、それはかなわなかったが、数年前、工場を立ち上げたという。
順調に推移していきたが、ここへきて競合する会社と品質・価格で競争力を失ってきたという。
設備を見て、何かアドバイスできることがあるかも・・・と明日、彼の住む地へ向かう。
そのため 2週間ほど ブログの更新は停止せざるをえない。
帰ってきて、零式カメラⅡの改良を行っていること 忘れなければいいと 思うのだが・・・
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イメージサークルを大きくするには、フランジバックを長くすることも大事だと気づく。
レンズは、レトロフォーカスにしたほうが有利。
百円ショップに凹レンズは 置いていないだろう。
さて、どうしたものか。

本日、東京は雨。東海地方は大雨になるという警報も出ていた。西の方では、この大雨に被害も出ているという。
しかし、今のところ東京の雨は、しとしと降るだけ。
毎日が日曜の身、外に出て テスト撮影する気にはなれない。
これが、百円ショップの虫眼鏡レンズ2枚使って調整した零式カメラⅡ用ベストレンズだろう。
絞板はφ0.5mmを使った。計算するとf:128、ほとんどピンホール・カメラの領域である。
ピントは無限遠に合わせている。
手前の草までの距離は約1m、被写界深度が深く、そこまでピントが来ているように思う。

フィルムをスキャナーに取り込んだところ、ほぼ1億画素の写真になっていた。
これならトリミングもありだろう。
ネガ上で 39mm×26mmの領域をトリミングする。
ほぼ、35mmカメラのフルサイズに相当する。
画素数は1600万画素ある。
解像度、コントラスト 良いレンズとは言えないが、昔の懐かしいレンズの味わいがあるように感じている。
世界に一つしかないカメラと、一つしかないレンズで・・・・撮影を楽しんでいます。
- 2015/07/01(水) 19:01:48|
- 写真の技法
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