戸越の秋祭りを散歩がてら撮影してみた。

八幡神社の秋の祭礼、雨になることが多いが、今年は天気に恵まれた。例年通り、境内には屋台が並ぶ。入りきれない夜店は、外の道路まで延びる。

昼でも暗い神社の裏手のスペースにも、夜店が並んでいた。
長辺800ピクセルにリサイズしているので、このままでいいかぁ~と思いましたが、拡大すると表情がはっきりわかります。盗撮の汚名はかけられたくないので、念のため顔にぼかしを入れました。(本当は、嫌な作業です。)
今回は、あまり使わないLマウント、Summicron 50mm F:2を、使用。ライカ伝説の銘玉、ズミクロンである。さすが、高解像度が売りのズミクロンです。
以前は、その高解像度でシャープな画像を喜んでいたのに・・・どうしてだろう?この頃は、ズミクロンより、その前のズミタール(Summitar)のほうに、小生の好みが戻っている。

黒い印半纏を羽織った女性の集団と、白の男性の対比が面白くスナップ撮影。この頃は「お祭り女子」が増えています。
小生の若いころには、考えられない光景が広がっていました。

女性まで、神輿を担いでいます。男女機会均等法、祭りではすで実現しています。
それにしても、若者の少ないこと・・・小生が青年の頃の神輿は、20代30代の血気溢れる若者が、群がるように神輿を取り囲み、沿道をジグザグしながら進んでいく。警官は、神輿の進行を注意深く見て、危険と思うと、鋭く笛をならした。
かっこいい神輿の行進を見ようと、子供たちは周りに群がっていた。
当時、この位置からカメラを構え、撮影できるなど、考えられもしなかった。
昔の青年と女性に担がれた神輿・・・あの熱気はありません。
子供たちも・・・どこへ行った?

神輿が進む戸越銀座の商店街、ここは人で埋まっていたはず。
戸越の祭礼も、段々、白山に似てきたかなぁ。
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- 2014/09/30(火) 12:47:21|
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9月21日 彼岸に入ったので、白山にある菩提寺にお参りに行く。すると、白山神社の祭礼がおこなわれていた。
墓参りを済ませた後、白山神社に行ってみた。

日曜の昼過ぎ、お祭りなら一番いい時間帯だが、境内に人影は少ない。夜、ここで盆踊りをするのだろうか。その時は、人出があるのか?すこし、心配になる。

夜店が4つ・・・しかないのも寂しい。白山は住む場所から商売する場所に変わってきたのだろう。
夜店の一番の客は、子供のはず。
江戸時代、ここは江戸の郊外だった。江戸に住む人の墓所となり、たくさんの寺がある。
明治になり、御茶ノ水、神保町の地区にたくさんの学校ができる。本郷には東京大学ができた。文京区と呼ぶにふさわしい。
学生相手の寮や住宅が建てられ、下町から移り住んできた職人も多かったのでは。大学の周辺には、理化学品を扱う会社も多い。
親戚にも、弥生町(今は変哲ない町名になった)に住でいた人がいたが、今は、郊外に移り住んでいる。
光学メーカーのマミヤもここが発祥の地だろう。同じ町内会で、顔見知りだったという。
住宅は小さなオフィスビルに変わり、住民は高齢化していく。子供の姿の少ないお祭りは、意気が上がりません。

祭りの半被を着た大人の姿の目立つお祭りでした。
- 2014/09/28(日) 05:37:46|
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思い出の地、蓼科を再訪し、その変遷を知りたくて、昔の写真、ネガを調べていると、懐かしい顔に逢う。ほろ苦い記憶を思い出す。
蓼科湖で撮った集合写真には、中学時代、学校一の秀才の顔もあった。高校は当時日本一の進学校へ、そして、決まったように東大に進む。
それから10年ほどして、中学時代の恩師に合う。雑談していると、彼の話が出る。「あの時彼は安田講堂に居たんだよ。」そう70年安保・学園紛争の時のはなしになる。「うまい具合に、機動隊が突入する1週間前に、外に出ていたそうだ」恩師の顔が、ニコニコ笑っている。無事卒業し、中央官庁へ(当然のことながら、キャリアー組)入ったようだ。マークはされていなかったか??その後、彼とは音信不通になっている。今となっては、探しようもない。
1967年、あの頃が、転換点だったのかも。 文化大革命が始まったのは1960年半ば、それからの10年は、小生にとって熱い時代だった。その間の5年間、カメラを握っていた。
ネガを調べていくと、学園紛争の写真も出てくる。~~公開できないなぁ。
昨日まで教室で席を並べ学んでいた級友が、バリケードの内と外に分かれ、争っている写真があった。真理を追究すべき学問の府で、「ナンセンス」と他人の発言を封鎖する。単位を授ける権威の上あぐらしていた教授連は、その声に、なすすべもなく、普通のおっさんに戻っていた。人間の根源の醜さがでてくる。嫌な時代であり、面白い時代でもあったと思う。この10年間が日本の写真史を見ても、一番熱い時期ではなかったか?
写真に力があった。日本を代表する写真家も輩出した。
学園紛争の写真は載せたくない。友人の姿が写っていたり、小生の居た大学も分かってしまう。これは、個人のプライバシー、そっと取っておくつもりだ。
その頃撮った写真、これも今となっては懐かしい。

町を歩いていて、この踊る集団に出会う。たどたどしい英語で話しかけ、住所を聞き出す。恵比寿の住宅街の小さな一軒家を借りていた。今となっては、その場所、どこだったか皆目見当もつかない。数回通い、写真に収めている。撮っていいかと、面と向かって承諾を得た記憶は・・・・定かにはない。阿吽の呼吸のようなものか。
ルポルタージュ写真家になるという気は、さらさらない。ただ、面白いからと、家に上がり込み、撮影していただけ。時代の熱気がそうさせていたのだろう。
一切の寄付もしていない、却って、夕食(菜食主義)を御馳走になっている。スキムミルクと砂糖をたくさん使った料理だった。
できた写真は、何枚か伸ばし、渡しているので、それが寄付であり、料理へのお礼となったのだろう。
教団の名はKurishuna、町で見た瞬間ピンときていた。
高校時代の成績は、文系科目は全滅に近い。理数系はよかった。それでも、社会の先生とは馬があったのか、よく話をした。その先生が面白いから読めと勧めてくれたのが、宇井白寿氏の、「東洋人の思唯方法」 ドクター論文が、そのまま出版され、その筋の研究者、関心を持つ人のベストセラーになっていたようだ。高校の図書室にも置いてあった。
こいつ、理系だろう。受験勉強に関係ない本でも、こいつなら読むかも・・・と思い勧めてくれたのかもしれません。文系の生徒には勧めなかったでしょう。受験の妨げになります。
その先生も今は冥界を彷徨っている。聞き出す手段はありません。
「インド人の思唯方法」に、興味を覚え、図書館の本をあさり、宇井白寿の著したインド宗教の話を拾い読み。その中に、熱烈派として紹介されていたのがこのkurisyuna教でした。~~ェエ、それが日本にも布教で来ている。
熱い時代のカメラは、全ての設定を人間の手で行わなければならない純機械式カメラであった。露光計付も販売はされていたが、プロは使っていたか??
露光計が内蔵されAE化すると、露光の失敗から解放される。モータードライブ、自動焦点、ズームレンズ・・・便利になるほど、写真を撮ろうとする意欲は希薄になっていく。
純機械式カメラを手にしたプロは、人様に見せられる写真をものにするため、カメラを使いこなす努力を惜しまなかった。操作が難しいからこそ、余計に写真に入れ込み、意欲は頂点に達していたのだろう。アマチュアとの差を見せつけてやるという気概もあっただろう。テーマは眼前にいくらでも転がっていた。それが、あの10年間ではなかったか。
カメラが誰でも簡単に撮れるようになると、すごいなぁと思える写真家は、でなくなっている。皮肉なものだとおもう。
小生の写真への思い、あの時代の熱気が根底にある。
その熱気を感じたくて、古いカメラを手放せない。純機械式のカメラがそれを感じさせてくれる。相変わらず、使いこなすのは難しいが、それが楽しい。いい写真を撮るためには、ハードルは高めに設定したほうがいい。
あれから、44年、インド発生のこの踊る宗教、布教、うまくいっていないようです。
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ネットで検索したら、東京に協会が健在だそうです。
記事によれば、ベトナム戦争のときアメリカで見直されたそうです。
確かに、リーダーと思しき人が、アメリカ、ニューヨークに電話していました。
掛け終わったあと、ニコニコしていました。
「アメリカに電話?」と聞いたら。「そう」、と答えた、「あとでビルがくる。」(月末清算の)と肩をすぼめていました。
当時、国際電話は非常に高かった。 そんなことまで、覚えているものですね。
- 2014/09/27(土) 11:26:39|
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参加している写真サークルで、11月に写真展を行う。写真展案内の葉書の印刷は終わり、会員に配られてきた。
小生以外の会員は、画像データーをCDに焼き、一括してラボに依頼、作品に仕上げてもらう。先日、ラボにCDを渡したとのメールが届く。
公募する写真展の中には、自分でプリントした写真は不可、ラボで焼いたものでないと、応募できないものもあるという。その流れなのか、ラボに依頼するのが当然と思っているらしい。
しかし、最初の撮影から、最終の作品まで、撮影した人が手作りできるから、写真は楽しいのに、それを拒否するとは・・・どういうことなのだろう? 公募展を開催する団体と選者の見識を疑っている。上から目線で、アマチュアの写真を見ているのだろうか?ラボに頼まないと、いい作品になりませんよ。プロが見れば一目瞭然。賞を取りたかったら、自分焼きは駄目です、見るに堪えない。
ラボで焼いた写真でないと駄目というなら、写真展に出すつもりはないが、幸い、単なる趣味の団体、自分で作ると宣言しても、誰も異存はない。
今回は一人二作品。
勝島運河の枯れた(萎びた)向日葵をモチーフに作品を撮ろうとした。何回か通って撮影したが、うまくいかない。
蓼科から帰ってきて、写真展の写真、どうしたものか?と思案、違うモチーフにするか迷った。ほかのメンバーは、もう終了したも同然。プロラボが、最終(額装)まで仕上げてくれる。時間がないなぁ~・・・・いや、もう一度、撮影に挑戦してみよう。
再度、勝島運河へ散歩した。
向日葵をどうとらえるか?
ライオンのタテガミのような花の周りの葉を、白く出したい・・・・
YG+ストロボでは、うまくいかない。ソラリゼーション現像でも、満足できるネガを得られなかった。
ならば、「赤外線フィルム」を使ってみよう。
もし、それでもだめなら・・・・枯れた向日葵を、「ピンホールカメラ」で撮影する。それを次の選択肢にしてもいい。

撮影しようという意欲はあったのですが、現地に到着すると、モチーフ候補のひまわりの姿はなくなっている。
代わりに、小さな花をたくさんつけた、丈の短い向日葵が、植えられていた。
あぁ失敗。写真は出会い、出会ったとき写しておかないと、次はない。また、思い知らされてしまった。

これでは、作品になりません。
違うテーマの作品を、写真のストックから、2枚選ぶことにしました。今月中に作品に仕上げます。
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蓼科で撮影した赤外線フィルムを現像し、気になったのは、未露光の斑点がネガに出たこと。
100フィートの長巻を手に入れたのは、今年の3月。有効期限は2016年3月となっている。少々驚きました。赤外線フィルムの有効期限、こんなに長かったか??1年もたなかったような気がする。長巻を切ってフィルムマガジンに詰める。4月ごろ使っている分には何も問題なし。ベースのポリエステルフィルム、丈夫だし、現像しても伸び縮みしない。(フィルムに使われている酢酸セルローズは、現像中ほんの少し膨潤します。気づかないでしょうが・・・)、定着時間も極めて短い。抜けの好いネガになる。
しかし、9月、蓼科で撮ったネガに、白い点が出てきた。
勝島運河の撮影は、最後の一本、このフィルムには盛大に白い斑点がネガに出てきた。(ポジだと黒点になります)
斑点は、ほぼ銀粒子の大きさ2,3個分の大きさか。
現像液にカルシウムイオンがあると、フィルムに斑点が出る場合もあるが・・・・
夏の暑い時期、室温に晒され、フィルムが劣化したのか? 赤外線フィルムは、もちのいいものではなかった。
それとも、現像操作で、不都合があったのか?
しかし、Rollei赤外400Sフィルムがなくなったので、原因の特定はできません。
Rollei Retro 400Sに、フィルムを替えてみようか?などと思っています。Retroフィルム、赤外部にも感光性があり、データ的には、Ilford SFX 200の赤外線フィルムと同等、感度が2倍高くなっています。

これは、同じ日、勝島運河を撮ったもの。かなり粒子が出ています。5か月室温に放置されると、粒子の凝集と不活性化が起きるのか? アグファの技術者に聞きたいところです。
- 2014/09/26(金) 12:06:23|
- ひまわり
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蓼科。どう変わったか知りたくて、昔のアルバムをめくり、ネガを調べる。思いがけない写真も出てくる。
八ヶ岳を縦走した写真には、小学校時代からの友人が、美ヶ原を散策した写真には、大学の学友の姿が写っていた。御射鹿池、白樺湖でボート遊びをしている写真もあった。写っている友人(女友達を含め)で、今でも連絡を取り合えるのは2,3名になっている。
会社勤めしているときは、仕事の関係で人に会い、名刺交換し、意気投合すれば、酒などを一緒に飲み、知り合いも増えていったが、会社を卒業、10年もたつと、会う人の数も減っていく。社會から疎外されている?世捨て人状態?
いえ、人間のしがらみ・俗世間から解放され、自由人になったのだと、ポジティブに考えるべきなのだろう。
近頃は、近くの図書館から、物質の根源・素粒子関係の本や、宇宙の本を借りてきて、読むことが多くなってる。興味は、人間から、自然、宇宙そのものへ・・・仙人の世界に近づいたのかも。
しかし、47年前は、まだ、俗世間に入り込んだばかりの青二才。Nikon Fを手に入れ、ギラギラしていたのだろうか、「なんでも撮ってやれ」(その数年前、小田実の「何でも見てやれ」という本が、ベストセラーになりました。)と、撮影に挑戦していました。

レンジファインダーカメラでは、1mまでしか、被写体に近づけません。花の接写は、ビユーカメラに4×5インチのフィルムで行うプロの仕事、アマチュアの出る幕はない。そんな固定概念がありました。ところが一眼レフは万能カメラ、超望遠レンズを付けて、スポーツ写真も可能。接写したければ、ベローズ装置を付ければいい。プロしか撮れないと思っていた写真を、撮ることができる!!ベローズ装置は高価で、さすがに手が出ない。最初は、中学時代に作った天体望遠鏡のレンズを、レンズの前に付け(虫眼鏡代わり)、撮ってみたが、中心はいいが周辺は流れる。
そこで、なけなしの金をはたいて、接写リングを購入した。リングの組み合わせで、倍率を何段階か変えられる。
蓼科の花を、盛んに接写していた。


クリックすると大きくなります。(すでにブログには載せたものです)
当時使っていたのは、今でいうポジフィルム。リバーサル・フィルム、スライドと呼んでいました。ネガカラーに比べ、色の発色がいいこと、人に渡すことができない一点もの。撮った写真を欲しいと言われたら、スライドだから、見に来てくれれば・・・と女の子なら誘える。しかし、ネガに比べ、適正露光の範囲が極端に狭い。接写倍率が上がるにつれ、露光補正も必要になる。簡単な計算で求められるが、接写リングの説明書には、その倍率が表になっていた。花の撮影では、狙った構図に合わせ、接写リングの組み合わせ、入射光式露光計で照度を測定、補正倍率を調べ、絞りあるいはシャッター速度で調整する。そして、風に揺れない瞬間を待ってシャッターを切る。ISO100のフィルムを主に使っていました。神経は使うし、補正も考える。慣れるまで大変な作業だった。結果も、すぐにはわからない。ラボからマウントになったスライドが届くのを持たなければならなかった。
今のデジタルなら、なんのストレスもなく撮影できる。結果を見て、思わしくなければ、満足できるまで、その場で幾度も撮影できる。スマートフォンで花の接写を楽しんでいる人もいた。
接写倍率が高くなると、露光補正が必要になる・・・そんなこと知らなくとも、カメラが自動的に補正し、綺麗な写真を作ってくれる。感度も高く、手持ちでも十分撮影できるようになった。ピントもカメラの設定をマクロにすると、自動で正確に合わせてくれる。老眼よりましだ。
苦心して撮影した接写とは、何だったのだろう?割り切れないモヤモヤが、心の底でくすぶっている。

これは、宿舎に入ってきた蟻の決闘。おそらく等倍で撮影しています。
しかし、接写の熱もじきに醒めました。花を綺麗に撮ろうと思うと、意外にバリエーションはすくない。背景をどう選ぶかがポイントになる。逆光狙いが多くなる。背景は少し花より暗いほうを選べばいい・・・・
結局、美しい花の写真を撮ろうとすれば、演出写真になりがち、と気づく。これでは、コマーシャル・フォトと同じでは??
コマーシャル・フォト…確かに大衆受けを狙った美しい写真だが・・・それは商品を売るための手段にすぎない。花を選び、光線と背景を演出し、美しいイメージを商品に被せる。プロの仕事だろう。
次から次へと美しい宣伝写真が現れるが、記憶に残るコマーシャル・フォトはあっただろうか?
商品のイメージは残るが、背景の美しい花や景色は記憶にない。添え物の撮影に・・・熱心になっているのか?
凝って写した割に、これはいいという写真が撮れない。同じような写真が増えていく、努力は報われず・・・・やめた。
それ以来、接写リングは、押入れの箱のなか、47年後復活、時たま使うようになりましたが・・・・やはり、花の接写は面白くない。綺麗に撮れても、それでどうなの??という気分。受け狙いで撮影しているのではと、内心忸怩たる気分になることもある。
芸術に鈍感なだけで、何も分かっていないのでしょう。美しい花と美しい風景の写真、苦手意識があります。
その反面、うんちくが、増えました。(いえ、言い訳がうまくなりました。)

プール平近くの鱒釣り。釣った鱒は、買わなければならない。夕飯用に人数分つりました。蓼科観光ホテルの看板が見えますが、今年訪れると、ホテルも、釣り堀もありません。どこかへ引っ越したのでしょうか?
こういう写真が好きです。人の痕跡が写っていれば、それを契機に、何だろうと、空想がひろがる。左隅で釣している子供たち、今は50歳半ば過ぎているだろう。そろそろ定年後も考えている年代になっているだろうなぁ。後ろの自動車、トヨタのコロナか? ブリキのバケツも珍しい、今はプラスチックのバケツになっている。麦わら帽を被っているが、今はもう少しバリエーションが増え、麦わら帽子減っているのでは?「鱒料理、お食事」手作りの感のある看板が好い。プロの看板屋のものではないだろう。家の壁に拡声器、当時観光地に行くと、サービスのつもりか、大音響で歌謡曲を流していた。うるさかったなぁ~~。写真は記録。こういうのが好き。美しいだけの花と美しいだけの風景写真では、そこに人間の痕跡がない。想像力を広げる契機がない。
一方、アンセル・アダムスのヨセミテの写真には、人の痕跡は写っていないが、確かに二人の人が写っている。
この差は、断絶している。小生が、風景、特に山の写真をとらなくなったのは、そんな心の動きがあったと、今、思っています。風景写真を撮ると、なにか人の痕跡を、小さくてもいいから人影を写しこみたくなる。

堀の部落で撮影したもの。明暗差の大きな所を切り取っています。YGフィルターで、その明暗差を和らげている。YGを使うなんて、大したものだと、その当時の自分を褒めてしまいました・・・・。自画自賛、少々みっともない。
暗い部分の調子も、しっかり出ているので・・・たっぷり目の露光を与え、軟調な現像液で現像したのでしょう。
堀を過ぎ、笹原を抜け、山道に入り、北八ヶ岳の登山口、渋の湯に至る道には、野仏が置かれていました。
今年行くと、その数が増していました。昔は数えるほどだったのに・・・・
多くは、この10年くらいで置かれたものではないでしょか、苔が覆っているものは少なかった。

野仏を発見すると、そのつど撮影。・・・たくさんの撮った野仏の写真をを並べてみると、面白いものはない。顔やスタイル、手の組みかた、どこかですでに見たことある気がする。石仏は、既製品に近いのか?多量に作る専門石材店でもあるのだろうか?こう作りましょうという雛形があるのでしょうか?
野仏に無常の喜びを感じる人から見たら、どんな罵声を浴びせ掛けられるか・・・・こんな尊いものを見て、お前は何を云う・・・仏像は鑑賞するものでなく、手を合わせ、拝み、見るものだと、叱られるでしょうね。新しく設置された野仏、観光用ではなく、信仰心から設置されたものと思いたい。では、参拝すべき御神体はどこに? 八ヶ岳の丸山・・・なのでしょか?

カラーだと生々しく、即物的過ぎる。心に何か思い浮かべることできますか?
ここはモノトーンのほうが、想像の翼を広げやすい。

47年まえには、こういう人いませんでした。道路が舗装され、道も増えています。冒険好き女性の一団。いい時代になったと思います。話声から関西のほうから来られたようです。どの道を行くか、話し合いをしているようでした。

山道、登るのは大変ですが、下るとなると、スピードが出て快適、一気に里まで下りていくのでしょう。
蓼科には3泊しました。小生らも、一気に車で、東京へもどりました。さあ、東京に帰りスナップだ。
- 2014/09/24(水) 15:37:27|
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蓼科の空を思った。
火が降り注ぐような朝焼けの空を思い出す。澄んだ風の吹き抜ける青い空を思い浮かべる。夕日が沈むころの空も良かったなぁ・・・・・
白樺林も思い出していた。白樺林は密集していて、歩き回るのは困難だった。
あの白樺をどう撮ったら好いだろうか? 落葉松林に入り込み、歩き回る。下草の羊歯群生もいいなぁ~~どう撮ろう?
久しぶりに訪れる蓼科、昔の思いが交錯する。悪い記憶は薄れ良い記憶が残るようだ。
山裾の蓼科、夜になると意外と雨が多い。外に出て星を見ようとしても、雲に阻まれてしまう。雲がかかりやすい。茅野の町は晴れていても、登ると曇りあるいは雨となる。そんなとき、たまに快晴の時がある。月が新月ならば、夜空に天の川を見ることができる。満月なら、薄の高原を月明りで散策できる。いい思い出のみが記憶に残っていく。
今回は三泊したが、2日は夜、雨が降っていた。1日は昼間晴れていたが、夕刻より曇りとなる。

蓼科山に入道雲がかかる。
105mmの望遠で、R60(600nmカット)のフィルターをつけて撮影していた。だいぶ気合が入っている。今ならどうする?おそらく露光を切り詰め気味に撮影し、誤魔化してしまうだろう。フィルターを持ち歩くのが面倒になっている。交換レンズも、持ち歩かない。

これは、5月の連休、天狗岳に登ろうとしたとき撮影。風景写真は、微粒子フィルムで・・・どこかの写真雑誌の教えに従い、使用していたが、ASA50(ISO50)の低感度、撮影条件はかなり狭い。しばらく使ってみたものの・・・
35mmの広角レンズを使い、Y2フィルターを付けて撮影している。あのころ、撮影に対し、まじめでした。当時のカメラ雑誌、広角レンズで撮ったものが多かった。影響されています。

映画の影響でしょうか白い樹の林を歩いたら、どんなに素敵だろう・・・好いイメージがありました。蓼科に行ったら白樺林を歩く・・・・そんな期待を込めていたのですが、これでは散策するの難しい、がっかりしたのを覚えています。

藪漕ぎして斜面を登ったのか、高い位置から横谷渓谷の渋川温泉を撮影しています。山あいの秘湯という趣があります。後ろに伸びる道路は、辰野館から蓼科高原へ抜ける県道、まだ砂利道です。当時は落葉松も若く、視界を遮っていません。この光景、今はもう狙えないかもしれません。

笹原の「お化け柳」 YGフィルターをつけて撮影。好い選択、気合が入っていました。
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以下は、今年9月(2014年)撮影した、「蓼科の空と樹と」です。



「お化け柳」と同じような構図(狙い)で撮っていますが、年をとり、狡猾になっています。21mmの超広角レンズと、赤外線フィルムを使いました。レンジファインダー用21mmレンズ、軽く小さい。これなら、携帯できます。

羊歯の葉get、超広角レンズでも、手前の羊歯にピントを合わせれば、落葉松林は、適度にボケます。


明るい林のイメージで、少しハイキーにしました。

明るい夏から、しかし、確実に秋は来ています。


同じ樹を、50mmと16mm(フルサイズ換算24mm)で撮影してみました。
どちらが好み?
モノトーン写真の範囲をカラーで撮影したら、面白いものにはならないでしょう。トリミングすればわかります。樹だけ撮ってどうするの?と言われてしまう。
カラーは即物的、説明的になりがちです。樹を説明するためには、広く範囲をとり、空間を感じさせる必要があります。(このような場所にある樹です・・・)
モノトーンは抽象化され、空間の深さは暗示的、伝えたい樹の幹を前面に出せる・・・・
カラーとモノトーンでは、狙い方/切り取り方は、違ってきますね。

落葉松林の白樺、モノトーンなら幹の材質感を狙ってアップの写真もOK。

カラーなら空に伸びる高さを強調し空間の深さをだす。少しハイキーに調子を整えました。

これは、カラーで撮影したほうが良かったか?

カラーだとありふれた、誰でも撮る写真になってしまうでしょう。
モノトーンは抽象的、ハイキーにして、白樺のイメージを強調してみました。(ずるいです)
- 2014/09/23(火) 12:54:33|
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最初に辰野館を訪れたのは、1966年か1967年の初夏。東京オリンピックが終わって2年ほど経った頃だったと思う。
当時は、電気がなく、ランプの宿。小さな水車を回し発電していた。できる電力はわずか、玄関の帳場に小さなはだか電球1つ、夜、弱い光を放っていた。

宿の裏手には小川が流れ、水車小屋があった。1967年になると、電気が通じるようになり、この発電機も、役目を終える。

今年、同じ場所に立っていた。その時、白樺の大木がこの場所にあった記憶はない。記憶に残るのはこの水車小屋だけ。47年も経てば、芽吹いたばかりの幼木も大きく育ち、立派な白樺となる、そして、青年は老人へ、自明のことだろう。
旅館の裏庭には、冬の暖房用の薪が綺麗に積まれていた。毎日の食事、風呂を焚く燃料も、当時は近くの山から切り出した木材ではなかったか?積まれた薪をバックに友人と写真を撮っていた。
早朝、部屋の窓を開けると、立ち込める霧に混ざり、木を燃やした時の香りが漂ってくる、あれはいいものだった。
しかし、今は薪を使うことはなくなったようだ。それも、少し寂しい。

この薪は食材のキノコを作るため利用しているようです。
今の季節はキノコ狩りのシーズン。昔なら、ご主人自ら、或は従業員に命じ、高原のキノコ狩りをしていたのでは。塩漬けにした蕨やキノコをビニール袋に入れ、貰った覚えがある。
ご主人にしてみれば、息子と同年代、かわいがってくれました。数年後、学業を終えたか、他の旅館での修業を終えたのか、辰野館にもどり、跡を継ぎ、新館増設し、「ホテル」にしたと、うわさで聞きましたが・・・・

今も辰野旅館は健在でした。もっともその息子(マスター)も、もう70歳に手が届く年齢になっているはず。・・・今、旅館を経営しているのは、次の世代でしょう。
入り口が道路の上に移動し、新館近くなっていました。帳場があった入り口付近の建物は荒れるに任せている。新館の建物も、建って40年近くたつのか、それなりの古色を帯びている。山奥のホテルという雰囲気はある。秘湯の温泉宿、都会の心をくすぐるのかもしれません。

スロープには、白樺林が広がっていました。ここは、辰野館の敷地の中です。
今年行ってみると、

白樺は少なく、林の中に埋没しています。
スロープを降り切った所に縄が張られて心理的になかに入りづらい。なに、ちょこっと跨げばいいのですが・・・・以前は、そのまま直角に登り、蓼科山を撮影していました。
時代が変われば、営業方針も変わる。当時は、近隣の人の湯治場であり、学生の夏合宿、林間学校などに使われていました。都会の人間が観光で訪れる場所ではありませんでした。
今は、林間学校や、学生の部活の場所でもなくなったようです。近隣農家の湯治場でもなくなっています。客層が変化すれば、それに合わせ、旅館も変化しないと淘汰されていく。

上には電話線、下にはロープが張られています。この落葉松もせいぜい10年くらい前に植えられたものでしょう。

同じ位置から50mmの標準レンズで撮影。モノトーンがいいか、カラーがいいか・・・好みの問題ですね。
脇道に入り、藪の中を散策する。方向感覚を失う。

ようやくキノコ狩りをする地元の人に出会い、道を聞く。そしておしゃべり。
話を聞くと、蓼科の観光客は減っているそうだ。八ヶ岳登山の拠点、辰野館よりさらに奥の渋御殿湯は倒産、渓谷沿いの横谷温泉も潰れた、明治温泉はどうなのか・・・よくわからない、厳しいだろうという。渋川温泉と辰野館は、それなりに頑張っている。そんな話を聞く。

これは1966年に撮影した明治温泉。奥に見えるのが渋川温泉だと思う。御射鹿池からすぐのところに明治温泉はあるが、今年行ってみると、金曜日なのに「本日は営業していません」の看板が、バス停近くに掲げられていた。それを見て行くのを思いとどまってしまった。行って写真を撮っておくべきだったと反省している。
当時、茅野から渋の湯へ行くバスは日に10本くらいあったと思う。登山客をさばききれない時は、臨時バスも出ていた。数人が集まればタクシーで、終点の渋の湯まで行く。荷物料を勘案すると、タクシーで行ってもそれほど差はなかった。
今、茅野から渋の湯へ行くバスは日に3本にとどまる。レジャーの質が、変わってしまったのだろう。個人の別荘の数は増えているが、観光で訪れる人は激減している。別荘の住人は、自家用車で、茅野の町で日用品、必需品を揃えればそれで足りる。蓼科のリゾートホテルの需要がおちているのだろう。
帰ってきて、ネットで調べると、横谷温泉も渋御殿湯も明治温泉も、支障なく営業している・・・鼻を爪まれたような気がします。
- 2014/09/22(月) 08:04:21|
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朝、散策していると、いつしか別荘地帯に入っていた。道路の入り口には縄があり、関係者以外立ち入り禁止の札が・・・・
9月初めのこと、もうシーズンは過ぎて人影はない。
別荘地帯のほうが下草は少ない。邪魔する木の枝も少ない。藪こぎするより楽だし、写真も撮りやすい。
お辞儀をして、なかに入れさせていただいた。

別荘地帯の道を散策するのは気持ちがいい。小さな木は間引かれ、朝陽が林の中まで届いていた。下草もそれほど繁茂しているわけではない。中を歩くと気持ちいいだろう。高原の空気は本当においしい。来ただけの価値はある。その上、趣味の写真撮影もできるなど、いうことなし。

別荘を見つける。いいですね。まだ建てられてそれほどの期間は経っていないでしょう。いかにも高原の別荘という雰囲気、落葉松林に映えています。記念に1枚、もう一枚。

道路際には羊歯の葉が・・・こういう羊歯を探していたのだと、記念写真。

9月の初め、高原はあきの真っ盛り、羊歯の葉は、枯れようとしています。もうすぐ落葉松の紅葉も始まるのでしょう

少し中に入れさせていただく。

難しいところ。モチーフはこんもりとした苔。左下の落葉松の枝がその上に乗り邪魔。ないほうが写真はすっきりする。取り除いて撮るべきか?迷うところ・・・いえ迷いません。あってもしょうがないなぁとそのまま触れずに撮るのが小生の流儀。スナップ写真は、ありのまま、手を加えてはいけない。
一度、人為的に演出し、美しさ、キャッチーさを加えたら、歯止めはなくなる。せいぜいできるのは、レフ板やストロボ程度だろう。対象に触らないぞ、という心の歯止めが必要と思っている。自然科学の世界では、画像に手を加えるのはご法度です。(STAP細胞騒動を思い出してください)
写真の記録性を信じている人に、手を加えたSTAPの画像を示す行為は許されないということ。
しかし、演出写真を否定しているわけではありません。合成写真もいいと思います。最初から、これは私の夢/感じたものですと、手を加え演出/合成したART写真をつくるのは、写真表現の可能性を広げること、正当な行為だと思います。

車、人もめったに通らないのか、道路の真ん中に花が咲いていました。
下草は少ないので、一年一回は,草刈しているのでしょう。

高原は秋が深まり、花の姿はあまり見かけない。

これはアザミ、蜂が最後の蜜集めをしていました。

植物に詳しくないので、何の花か不明。

邪魔な枝がキノコを隠していますが・・・・そのまま撮影。内蔵の小さなストロボを強制発光し、撮影。
キノコの名は「じごぼう」、辰野館のご主人曰く「味噌汁に入れるとうまい」。
そう教えてくれたのを覚えています。ご存命なら、90歳はとうに過ぎているでしょう。
- 2014/09/21(日) 07:50:10|
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奥蓼科の終点、渋の湯は北八ヶ岳の登り口。当時はここを拠点に、八ヶ岳を縦走したり、高見石を経由して白駒の池に抜けたり、或は、八ヶ岳の一つ、天狗岳に登頂してから、唐沢鉱泉へ下ったりしていました。
今回は、できたら、せめて天狗だけに登ってみたいものと、野心を秘めて奥蓼科の地に降り立ちました。
しかし、御射鹿池から辰野旅館に至る最初の坂道で、もうグロッキー、体力になさを思い知らされ、今年のアッタックは断念しました。
代わりに、平らな高原をカメラ片手に放浪していた。

八ヶ岳の山に登れば、太陽が高い日中であれ、めったに行ける場所でないので、珍しいとパチパチとシャッターを押していましたが、見慣れた平原の散歩では、日中に、キャッチーな写真はめったに撮れるものでないと気づき、次第に、朝か夕方の斜光狙いになっていました。まぁ、教科書通りのことをしていました。

道路は未舗装のまま、雨が降ると、浅い表土がはがれ、水たまりができる。

一日足止め、午後3時過ぎ、雨が上がったので、外に出て、ぶらぶらと2時間近く散歩。
雲が切れたとき撮影しています。
明日早く宿をでて、天狗岳に登ろうとしていました。
左下に見えるのは御射鹿池です。
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今回は(も)、雨にたたられ、夕方の散策はできませんでした。
日中晴れたときを狙い、赤外線フィルムを使って撮影、以前より確実にずるくなっています。

御射鹿池が中央左に写っています。前回より高い位置から撮影しています。

R72フィルターを付けて撮影したので、空は暗く落ち、雲は白く、遠くの山の稜線がくっきりと写っています。

更に見上げ、デジタルカメラで撮影すると、空には秋の風が吹いていました。
- 2014/09/20(土) 15:10:26|
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蓼科湖を最初に訪れたのは横岳のロープウェーが開業し、ビーナスラインも完成した頃ではなかったか?
当時、蓼科湖は、観光の中心地、プール平には大きなバス停があり、後ろにはプールもあった。銀座の有名店なレストラン(コックドール?)の店があった記憶が残っている。
今回行ってみると、そのレストランはなく、跡地は駐車場に、バス停の大きな建物も、プールもなくなっていた。

1967年7月 105mmの望遠レンズで、蓼科湖の対岸から撮影したもの。このホテルは、建設中であった。右上の丘に洒落た洋館が立っていた。

1969年 2年後の夏、ポジフィルム(スライド)で撮影。前回より少し右に移動し、広角の35mmで撮影していた。
民宿、食堂、旅館、バンガロウなどが周辺に点在し、かなりの賑わいがあった。
釣をする人がいたのだろうか?游魚料200円の看板が、池に挿してある。

2014年 今回撮影した蓼科湖。ほぼ同じ場所に立って撮影しているが、このときは湖面に映る雲の様子が面白いので、注意はそちらに・・・もう少し左にカメラを向けて撮るべきでした。
丘の上の洋館が木々に隠されたのか・・・あるいはなくなってしまったのか、姿を確認できません。
湖畔を埋めていた建物の数も少なくなっているようです。

白いホテルも改修されているようです。昔の写真と形が違っています。丘の洋館、やはりこの写真にも写っていません。

夏休みが終了、避暑地に足を伸ばす人は少なくなるのは、理解できますが、本日は日曜の昼過ぎ・・・もう少し人出があっても・・・と思ってしまう。ボート遊びする人影も少ない。
晴れた日は、カラーがいいですね。モノトーン向きではありません。フィルムカメラをバックの中にしまいました。

コスモスの花が、風に揺れていました。花なら広角接写だろうと、常識に囚われています。教科書的発想、褒められたものではありませんが、このカメラ、24cmまで近づけます。つい、接写してしまいました。

白い花は、湖面から浮き上がるように撮影すべき。

アザミが咲いていました。奥蓼科の山では、あまり見かけませんでした。群生しています。

今回、昆虫をあまり見かけませんでした。花にトンボ一匹が止まっていました。47年前は群れをなして飛んでいて、素手でも簡単に捕まえることができたほどでしたが・・・寂しい限りです。
「沈黙の春」が、気づかないうちに忍び寄ってきたのかもしれません。

デジタルカメラ片手に、蓼科湖を一周する。・・・・と、変な柵にぶつかる。

上の部分をカット、パノラマ風にトリミング。
「この柵は何のためのもの?」と立ち止まって考えるか、文様の面白さに心を奪われ、柵の中に足を踏み込むか・・・、
子供なら、躊躇なく進むでしょう。若いとはそういうこと。老人は立ち止まり、しきりに考えていました。
何を? 何をでしょうねぇ。そのうち何を考えているのかすらわからなくなっている。ボケの進行は早いようです。
- 2014/09/19(金) 17:33:36|
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蓼科滞在中、今年の異常気象の影響をうけ、晴れたのは1日、曇りか雨の日が続いていた。
霧にけぶる白樺林の幽玄な光景を写すのもいいなぁ~~とは思ったが、霧はあまり深くなく、雨が降り続いているだけ。
植生も変化、落葉松に包囲された白樺は枯れ落ちて、以前のような白樺の林はなくなっている。
昔の記憶では、霧が発生しても、高原なので雨になることは少なかった。茅野の町から見たら、山に雲がかかっている状態だったのだろう。その霧に陽ざしがさし木々の幹が明るい乳白色に包まれた時がベストの撮影条件。
残念ながら、今回はそのような条件にはならなかった。
早朝5時に目覚める。雨は小ぶりになっていた。少し霧があるようだ。暗いので三脚を持ち出し、カメラをセット。だめもとでテス撮影をする。(風景写真、めったに撮らないので、いい機会と、どう写るかのテストです。・・・・データー集め)

ピントは50フィート(約15m)先の細い白樺の幹に合わせる。暗いのでTri-Xと言えど、ここはf:1.4/60秒の露光だろう。レンズはJupiter-3 開放絞りf:1.5 ContaxⅡaのシャッターには1/60秒はない。1/50秒で撮影。絞りの効果を見たかったので、f:2.8/10秒、f:11×1秒で撮影してみた。
f:1.5では、ピントが合う範囲が狭く、やはり風景には向いていない。f:2.8まで絞ると、一番手前の大きな幹はボケているが、霧に煙っている木々の感じはよく出ている。f:11まで絞ると、手前の樹の幹までピントは届いている。
カメラの被写界深度目盛りを読むと、f:4まで絞れば、20フィート(6m)から無限までピントが合っているように撮影できます。でも、霧にけぶる林、無限遠までピントが合う必要ないと割り切ればf:2.8で使ってもいいのかも。少し明るくなったら、手持ちで撮影できます。(ライカ形式のカメラではレンズのヘリコイドに刻まれています。)
8時過ぎ、明るくなったので、1枚撮影してみましたが・・・・満足できる作品にはなりませんでした。

30フィート(約9m)の細い白樺の幹にピントを合わせたのですが、(f:5.6なので15フィートから無限までが被写界深度に入ります)霧の白樺の風情はありませんね。落葉松林で、どうにか生き残った、発育不全の白樺でした。
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カメラなどの撮影機材が良くなったので、カメラを握り、1年も撮影を続ければ、撮影のテクニックはほぼ獲得できるでしょう。2,3か月で、うまいなと思う写真を撮る人もいます。
風景写真は、もう撮影技術云々ではなくなっているのではと思っている。
撮影すべき場所(ガイドを頼んでもいい)に行くこと、天候に恵まれることの2点だけではないだろうか。
カメラを握り、風景写真を撮りまくった47年前、撮影した写真。

撮影の腕などなくとも、その場所に出会えさえすれば、駆け出しの素人でもこの程度の撮影はできる。プレビューのボタンを押しこめば、絞りの効果もペンタプリズムの中で確認できる。露光は、3段変化させて撮影、一番露光があったものを選んでいた。
現代のデジタルカメラなら、撮影後ただちに液晶画面で結果を確認し、再度、満足できるまで、条件を換え撮影すればいい。それでほぼ作品は完成する。

これは、105mmの望遠で切り取りました。残念ながら、今回はこのような霧には出会えませんでした。

霧が晴れ、遠くの山脈までくっきりと見えてきたので、35mmの広角レンズに交換。中央の山は霧ヶ峰の車山でしょう。はるか彼方には中央アルプスの山脈が望めます。
昔の写真を改めみると、小生の写真の腕、一向に進歩していないようです。うんちくばかり増えてきたのですが・・・
進歩したのは撮影機材、特にデジタルカメラだろう。腕よりカメラかも・・・と反省しています。
キャッチーな風景写真を撮る条件は、意欲、体力、金力の3つになったようです。(47年前は、写真の腕が全てと信じていたのですが・・・)
カメラの機能は、充分高く、カメラ任せで撮影はできます。
潤沢な資金があれば、最新のデジタルカメラを購入すればいい。なに、200万円もあれば充分です。(金力)
撮影スポット近くの旅館に泊まり、絶好の天気が来るのを待つ。ガイドに連れて行ってもらってもいい。彼らは撮影スポットをよく知っている。(金力、意欲が必要)
カメラを抱え、撮影スポットへ、夜討ち朝駆けの気持ちで、先陣争いし、三脚をすえつけ、その時を待つ。(体力と意欲)
~~ん、とても、小生のできることではありません。意欲はあれど、体力、金力の2つの力を欠いている。
まぁ、写真は趣味。
「なんて素敵な風景写真を撮ったの!」と、人に認められ/褒められたくて、写真を撮るわけでないと達観し、おいしい空気を吸うだけでも満足だと思えば、風景写真を撮るのも、いいものだ。
それなりに自分の記憶に残っていく。
- 2014/09/18(木) 08:23:48|
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47年前(1967年夏)辰野館の店主に勧められ、八方台に登った。八ヶ岳の稜線を望めるベストスポットとのこと。

確かに、眺望は開け、雄大な八ヶ岳の稜線が美しい。感激し、何枚もシャッターを押している。撮影データは残されていない。現像したネガが残されているだけ。今見ると、現像はまだ下手、現像むらがある。空の調子が出ているので、Y2フィルターをつけて撮影したのではないかと想像する。湧き上がる雲、八ヶ岳の稜線、主峰・赤岳 いいものはなんでも画面に入れて・・・・カメラ初心者の陥りやすい構図になっている。 しかし、今だって、このようなフレーミングになるのでは?

10カット撮影した中の1枚。なんでもいいから、撮っておこうと貪欲にシャッターを切ったのだろうが、今となっては、手前の山のボリューム感が、なんとなくいい。

47年前と同じ場所に立ち、ソニーのデジタルカメラで撮影。フルサイズ換算で24mm、標準50mmレンズの2倍の画角がある。空が澄み渡り、白い雲が空にあったら、高い空を強調するフレーミングになるが、生憎の曇り空。時たま雲が割れ、光が地上に届く。むしろ、光をよく観察し、移ろいゆく光の影をモノトーンフィルムで撮影する条件になっていた。
地上を大きく入れてフレーミングし撮影。

縦位置は、広角レンズの定番フレーミング、新鮮味は、何もない。

雲の間から光の帯が、幾重にもなって、地上を這うように進んでいく。注意/意識を集中させると、それが見えてくる。アンセル・アダムスは、そのかすかな光の変化も見逃さず、感じ、そして一瞬のチャンスを捕まえシャッターを切る。~~ん、難しい。撮影と現像、確かな暗室技術がないと・・・光は読み切れないだろう。
手前の山の木々に光が入る、ここだと思い、シャッターを切った。結果の確認は後日、現像が上がってからになる。

縦位置で撮影したときには、すでに光は逃げていた。

空を表現したかったら、f:16/500sec 或はf:22/500secの露光を選ぶ。地上の暗い部分のディテールは失われるが、キャッチーな写真になるだろう。しかし、性分なのだろう、全てのトーンを写しこみたいと考えている。
デジタルカメラの結果は、f:8/640secである。小生はf:11/500secを選んだ。空に対しては、露光過剰、地上の風景には、少し足りない。だが、暗部は潰れないだろうと楽観する。本来ならYGフィルターをつけて撮影していれば、良い調子のネガを得ることができただろう。
空の調子を出すため、明るい部分を焼き、暗い部分を浮き出すよう、トーンカーブを調整した。
焼きこんだ空には、銀粒子のざらつきがでる。風景写真では、もっとも嫌われた部分。
「こんな写真撮って」と馬鹿にされるところである。
アンセル・アダムスには遠く及ばない。
- 2014/09/17(水) 12:04:43|
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蓼科に行けば、蓼科山はどこからでも見える。ついカメラを向けて撮ってしまうが、とりとめのない写真になりがち。
空と光が、特別な時に巡り合えないと、キャッチーな写真はできない。運と根気と・・・暇と金がポイントだろう。
一度、すごい朝焼けに出会っている。これは、小生の記憶に残る出来事だが・・・他人からみれば、「あぁそうなの」というレベルだろう。誰もが、高級なカメラを持って、その場に居たら、このような写真を撮影できただろうと思う。

単に運がよかっただけ。
しかし、その時は、そうは考えなかった。どうだすごいだろうという、誇らしげな気持ちでいた。
単に、Nikon Fとそのレンズの性能が素晴らしかったからに過ぎない。バカチョンカメラでは、こうは撮影できなかっただけである。
クリックすれば大きくなります。(このグログに掲載済み)

当時は風景写真にのめりこんでいた。
47年前の県道は、まだ舗装されていません。落葉松もそれほど成長していないので、蓼科山がくっきりと望めます。現在は、成長した落葉松林に遮られ、わずかに蓼科山の上部を覗かせるだけ、カメラを向けてフレーミングする気にもなりません。
風景写真は、時の経過とは無縁な普遍的な美しさを追及する。19世紀末、マイブリッジがヨセミテの風景を撮影している。美しい絵葉書にして、販売するのが目的でした。
20世紀中ごろになると、アンセル・アダムスが、ヨセミテ国立公園を撮影し、傑作をものにしている。
現在も、旅行雑誌には、カラーで撮影された現在のヨセミテパークの美しい写真が掲載される。
そこに、時間の経過を感じることはない。湿式で撮られたもの、8×10のフィルムで撮影したもの、最新のデジタルで撮影されたもの、その差はあれど、作品としていいか悪いかが、関心のポイント。
この写真は、違っています。歳月が過ぎていったのを、はっきり認識させくれる写真(記録)になっています。続いて撮影したカットには、兄の若い日の姿が焼きこまれていました。これは、家族のアルバムです。35mmの広角レンズで切りとっていました。
少々、技巧に走りすぎですが、この場所を、撮るなら、今なら、こんなフレーミングしないと・・・・落ち着かない。

カーブ・ミラーに映る蓼科山を撮影。電信柱が立ち蓼科山の景観を汚しています。直接フレーミングする気にはなれませんでした。

少し高いところから撮影したようです。Nikon F Auto-Nikkor 50mmの標準レンズで撮影しています。

これは、今回撮影したもの。同じ50mmレンズです。レンズはキエフのJupiter-3。
1950年製です。使われたレンズは全てドイツのイエナ工場から運んだものでしょう。ツアイスの技術者が全て教え、チェックした、ほぼ、ツアイスのf:1.5ゾナーです。

Nikon F Auto-Nikkor 105mm F:2.5のレンズで、蓼科山をクローズアップ。35mm、50mm、105mmとレンズを換えて撮影していました。
今回は21mmと50mmのレンズで撮影。21mmの広角は、最初少し使いましたが、あとは50mmレンズ専用で撮影していました。50mmレンズが体質に合っているようです。

少し高いところに登り縦位置で撮影。
広角は、デジタル専用です。

こうやって撮影してみると、風景写真は時の経過とは無関係です。今年撮った蓼科山の写真と、47年前の写真、本質的な差などない。どちらが今年で、どちらが47年前か・・・どちらがいいかなど、論じることもできない。同じレベル、大したことない。
写真の重要な要素、記録性は抜け落ちています。絵画の世界に入りこんでいるのでしょう。しかし、写真は絵画??になりえると思いたいのかなぁ・・・・また19世紀末のピクトリアリズム写真に戻りたいのだろうか?
絵画は、風景をそのまま写生(写真のように)したものではない。風景に潜む「精神」を描いたものが作品として残る。
雪舟の天橋立図、フェルメールのデルフトの眺望、ターナーの風景画、北斎の赤富士、広重の五十三次、セザンヌの山のデッサン、林武の赤富士、風景を描いた画家の作品を思い浮かべると、写真とは全く異次元の美の世界。画家の精神世界そのものだろうと、叫びたくなる。
画家は内的必然に従い、筆をとり作品を作って行く。風景の内在する精神そのものに感応し、作成されるのが絵画なら、写真家で、そこまで踏み込み撮影した人はいただろうか?
「綺麗だから撮った。」「素晴らしい瞬間だから、シャッターを切った」、「これを皆さんに伝えたかったから撮った」、「一期一会、その美しさを記録する」・・・・写真はコピーで何枚も同じ写真をを複製できる。現代の消費文明に根差している。美の次元が違っている。言い訳で納得させても、異次元は異次元。だめなものは駄目。シャッターを押すだけで作品ができる文明の利器、記録装置です。そこを無視し、風景に潜む精神を、写真家は、どのように抽出し、写真に焼き付けてきたのか?
とはいえ、ごく少数の優れた写真家が、それをなしえたことも確か。
アンセル・アダムスのヨセミテの写真を見たとき、雷に撃たれたようなショックを感じた。
じっと、作品を見つめ、そっと瞼を閉じると、隣に人の気配を感じた。
がっしりした三脚にセットされたビューカメラを操作する人がいる。暗幕を被りフレーミングするアンセル・アダムスが居た。暗幕から顔をだし、こちらを見て、にっこりと笑う。
そう、この写真には、人が二人写っている。見ている小生と、撮影するアンセル・アダムス。
眼を開けると、ハーフドームの写真が目の前にあった。
風景写真に熱を入れていた4年間は終了、以後、風景写真は撮らなくなった。誘われれば撮るが、自分から積極的に撮る気にはならない。
撮れるものなら、アンセル・アダムスのような風景写真を・・・・とても無理とあきらめた。
一方、「花鳥風月の美しさ」だけを競い合う写真には、飽きてしまったのだろう。
それからは、家庭のアルバム用写真に専念。写真の重要な機能、記録性が、写真を撮るための支えになっていた。
- 2014/09/16(火) 19:28:49|
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1966年から1969年の4年間ほど、夏になると奥蓼科へ行き、八ヶ岳に登ったり、カメラ片手に落葉松林に踏み込み、所構わずシャッターを切っていた。
植林された落葉松林に入ると、明るい陽ざしに、羊歯の葉が明るく輝いていたことを覚えている。

蓼科にいくなら、あの明るく輝く羊歯を撮ってみたいものと、密かに考えていた。
この写真は、奇跡的に残っていたポジフィルムで、そのなかでも比較的損傷の少ないスライドの一枚である。それを、フィルムスキャナーでPCに画像を取り込んだもの。長い年月、お菓子の空き缶で眠っていたため、褪色していたが、当時の雰囲気を伝えていると思う。フィルムはフジのリバーサル(ポジ)フィルムを使用してる。感度はASA100(ISO100)である。

落葉松は大きく太く成長し、巨木の林になっていた。地上に届く光はわずかになり、落葉松林の羊歯の群生は小さくなり、代わりに笹が増えている。植生は確実に変わっていた。白樺の樹も少なくなってきている。
一か月早く来ていれば、羊歯の葉ももっときれいだったのだろう・・・・群生する羊歯の葉に褐色の斑点が浮かぶ。老人の皮膚を連想させる。小生と同じか・・・・
弱い逆光の陽を受けた羊歯の葉に、バランスさせようと内蔵の小さなストロボを強制発光させて撮影。見比べると、昔のスライドの発色のほうが深みがある。Sony NEXだからか? ニコンやキャノンなら、発色はフィルムよりいいのだろうか?

Rollei赤外400Sフィルムを使用し撮影。720nm以下の波長をカットするフィルターを付けて撮影している。もし、太陽の日差しに照らされ、赤外線が豊富に照射されていたら、葉は白く輝くように撮影できるはずである。
レンジファインダーなので最短は1mまでしか近づけない。赤外線撮影時には、距離補正も必要になる。手振れを気にしながら、絞りをなるべく絞りたい。撮影には、かなりストレスがかかる。
結果は、努力は報われない。草花を白黒フィルムで撮るのは至難の芸当だと思い知らされる。
いくら努力しても、だめなものは、駄目、という現実を突きつけられる。

デジタルカラーでは、色彩に深みを感じないが、雰囲気は出ている。撮影は至極簡単。フレーミングして、ボタンを押すだけ。ストレスはない。

太陽の陽差しが羊歯の葉に届いたので、撮影してみたが、赤外線フィルムを使ってもキャッチーな写真にならない。

むしろパンクロのTri-Xフィルムで撮影したほうが、その場の雰囲気を伝えている。
フィルムとフィルターに凝り、わざわざ撮影条件を難しくしている。
まぁ、これも経験、勉強になった・・・とポジティブに考えよう。
草・花は カラーの世界なのでしょう。
もし、再び夏の蓼科へ来る日が訪れたら、今度はカラーポジフィルムで、羊歯の葉を撮影してみよう。
勿論、カメラはNikon Fである。
P.S
カラー写真の撮影にはリバーサルとかスライドと呼んでいたフィルムを使っていた。今ならポジフィルムというべきだろう。コダックのリバーサルが一番発色が良かったが、高価なので、国産の富士かコニカを主に使っていた。
10年ほど前、菓子の空き缶に当時のスライドを発見。褪色が進んでいたが、これ以上の劣化を防ごうと、フィルムスキャナーで取り込み、デジタルデーターに変換している。経緯や撮影した写真の一部は、すでにこのブログの2013年3月、5月に載せている。あるいは、「思い出の写真」のジャンルにまとめられているので、興味ある方はそちらをクリックしてください。
- 2014/09/15(月) 09:17:27|
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笹原部落(今は市なので、笹原地区?)から道は登りになり、くねくねと曲った道が続いた。
ターンする回数が少なくなった気がする。道路が整備されたのか・・・・思ったより早く御射鹿池に到着する。

県道から、このようにフレーミングできる場所はなかった。植林された落葉松が成長し視界を塞いだか、あるいは、斜面を藪こぎして登り撮影ポイントを見つけたのか・・・若い時なので、そのぐらいのことはしただろう。
はるか眼下に笹原部落が見える。県道はまだ舗装されていない。砂利道をバスで登ってきた。
御射鹿池は、農業用水の溜池、堤防が直線になっている。できてまだ間がないのか、護岸は土塊、草もまばら、木も生えていなかった。
朝方は曇り、少しガスも出ていたが、午後になると天気は回復する。そのとき撮影した御射鹿池の遠望。バスが一台、池の端に停車、するとたくさんの人が降りてきて、散らばり、写真の撮影を始めていた。

噂には聞いていたが、有名な撮影スポットになっているらしい。

堤の端から撮影した御射鹿池の47年前の風景。水没した場所に白樺の若い木が生えていたが、すでに枯れていた。今回確認したが、跡形もなくなっていた。倒れ、池の底で朽ちてしまったのだろう。
中央付近に小さく建物が見える。御射鹿荘と名乗る売店があった。当時池のふちにキャンプ場があり、夏休み、地元の高校生がきてテント生活を楽しんでいた。ボートは売店が管理。売店の後ろの斜面には何軒かのバンガロウもあった。
売店はすでになく、バンガロウも深い木の陰に隠れわからなくなっている。ボートも消えていた。
友人等とボート遊びをし、売店でビールを飲み、そばを食べた記憶が残っている。
あれは一場の夢のようなものか??

高名な画家が御射鹿池で絵を描いたそうだ。それから有名になり、撮影のスポットになったという。この日は金曜の午前中、まだ人影はない。天気も曇りがち、カラーの発色は期待できない。
堤防の上に登ろうとしたが、無粋にも柵があり、禁止の立て看板がある。
とはいえ、写真を撮りたい人、若く機敏な人なら、堤の上へ入るのは簡単・・・・小生はあきらめましたが。
池の周りは管理されているのか、昔より綺麗になっている。キャンプ場のむき出しの地面は、落葉松の林になっていた。
形の良い白樺があった。記憶にない。おそらく植えられたものだろう。このように撮ってほしいという意図を感じた。

県道の際まで下がってフレーミング。
整備する人の意図に従って撮影しているようなもの。「さあ、ここが、撮影スポットです。」

疎水を下る。
堤の上は林になっていた。植林し10年も経ったらこうなるのだろう。あれから47年が経過している。驚くことでもないのだろう。
丸木橋があった。ここを渡り、堤を登れば、昔の撮影スポットにでる。渡るか? 丸木橋をじっと見つめる。真ん中の一本が少し朽ちている。ちょっと不安定、落ちたら嫌だとあきらめる。年は取りたくないものと自虐的な気分になる。

デジカメのレンズはE16mmの広角レンズ1本。フルサイズ換算で24mm。純正の交換レンズは持っていない。マウントアダプターを介し古いレンズをつけて遊んでいる。その、アダプターも持ってこなかった。
トリミングして画像を整える。フルサイズ換算で60mmくらいの画角になる。
深い山奥の湖の雰囲気を出せるので、撮影スポットになっているのだろうが、やがて陳腐化し、忘れさられることにならないか?
土曜日曜になると観光バスが来て、賑わうという。ズームレンズなら、いろいろと切り取りようはあると思う。
撮った写真・・・・記憶に残るか否かは、その人の感性でしょう。
- 2014/09/14(日) 08:28:01|
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50年近く前、奥蓼科に幾度となく遊びに行き、八ヶ岳などを歩き回っていた。
夏の初め、兄からもう一度蓼科に行ってみないかと誘われていた。
兄の都合がつかなく計画は伸び伸びになっていたが、一か月遅れの先週、茅野に降り立っていた。
昔とは様変わり、見知ったはずの道も、新たにできた道や、道が改良され、目印になっていた建物もなくなり、迷ってしまった。
ようやく市街地をぬけ奥蓼科へ向かう道を見つける。

笹原の部落を過ぎると道は上りになる。ここが最後の人里だった。
この柳には見覚えがある。ひそかに「お化け柳」と名付けていた。
当時すでに巨木であった。もっと高くそびえていた。上を切られたか?
右端の石組みの辺りに、野仏が数体置かれていた。
そしてバスの停留所もあった。

それがこの写真。1967年8月に、ここに降り立って、このお化け柳を撮影している。カメラはNikon F、 レンズは画角からNikkor 35mm F:2.8 フィルムはNeopan F(ISO50) それにYGフィルターをつけて撮影していた。 おそらくf:8(5.6かも)/60秒でシャッターを切っていたと思う。
手振れをさせない自信があったら、もっと絞っていたかもしれない。
カメラ雑誌を読み漁り、当時は、風景を撮影するにはベストな条件だろうと思っていた。
手には宝物のNikon F 家のカメラMamiya-6を卒業し、いよいよ専用の高級カメラを手にしていた。
レンズを交換することが嬉しく、随分気合を入れて撮っているなぁと思う。
現像はNeopanFにはミクロファインを、NeopanSSにはフジドール(D-76)を使っていた。まだTri-Xには手を出していない頃である。

47年後、石仏たちは、ずっと右のほうに移動していた。石組みは壊され、コンクリートの壁に変わっている。道路は少し広くなったような印象もある。

1967年と現在(2014年)の石仏と石碑を比べると、同じ石碑、石仏はあれど、かなり数が増えている。道路の改良などでここに追いやられてきたのであろう。

この石仏群から右に10歩ほど歩いて撮影した笹原部落の民家。部屋の中まで丸見え、よそ者が珍しい時代、近所はみんな見知った人間だったのでしょう。日中、道を歩く人影もありませんでした。
YGフィルターの効果が出ています。当時はまじめに写真雑誌を読み、撮影のコツを習熟しようとしていました。
心がけがいい。重いNikon Fに、50mmと105mmの交換レンズを持参していました。
今回は軽いレンジファインダーのContax Ⅱaと、21mmと50mmの交換レンズを持ってきました。
心がけが低下、YGフィルターを持ってくるのを忘れていました。

お化け柳のアップ写真。
笹原での撮影は、35mmレンズ1本で、行っていました。
- 2014/09/12(金) 11:00:09|
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「ひまわり」 まだ撮りようはあると・・・再び 勝島運河へ行く。
ソフィアローレンとマストロヤンニの名画「ひまわり」が心の中でくすぶっていた。
戦争後数年たち、探し尋ねた戦場は一面の向日葵畑になっていた。
その畑を、ソフィアローレンが夫を探し、歩いていく。
一本、一本のひまわりの下には、戦闘で亡くなった兵士が眠っている・・・・と思うと背筋が凍る。
明るく健康的という「ひまわり」のイメージを逆手にとった、すごい演出。
屍の上にしか平和は築けないのか?反戦映画の名画だろう。
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明るい「向日葵」でなく、滅んでいく/醜い「ひまわり」をとりたいもの。
綺麗なものを「きれい」に写すのは・・・卒業してもいいのではないか?
YGフィルター、ストロボ強制シンクロで撮影してみたが、結果は思わしくない。
非現実的なイメージにできないか??
そこで、思い当たったのは、「ソラリゼーション」

フィルムを現像中、光に晒し、さらに現像する。マンレイが得意とした手法。シュールレアリスム時代の技法で、現在、行う人は少なくなった。タイミングを間違えると、ネガは使い物にならない。失敗をおそれ、試そうとする人も少ない。
でも、そんなに難しい技法でもない。自分で白黒フィルムを現像する人なら、簡単にコツは掴める。
ソラリゼーション現像してみたが・・・・今度は不気味になりすぎて、普通の感覚(美しい写真を求める)では、目をしかめ、二度と見たくないと、非難するだろう。

左中央付近に、小さく三日月が写っている。鎌の形・・・西洋では死神のイメージにつながる。
これを強調するよう、焼きこむか・・・?

不気味だけれど、向日葵の顔、少女の面影が残る。これを作品にしようか・・・

これでは、不気味すぎて、拒否反応だろう。
写真表現は、先人たちのおかげで幅は広くなっている。
その技法を、もう一度振り返り、自分のものにし、さらに工夫し、新たな写真表現を開発すべきなのに、
カメラの機能に囚われの身となり、綺麗な対象を、きれいに写すのが、写真だと、思ってはいまいか?
写真表現の範囲を狭めるべきではないと思う。
メーカー主導のカメラ開発に載せられ、新しいデジカメに飛びつくより、
手持ちのカメラ(デジカメでも)を工夫して使い切り、表現できる範囲を、広げていくことのほうが重要だろう。
メーカーから離れると、精神的な自由度は高い・・・・それに工夫し、新しい表現法にTRYすることは、楽しいこと。

この程度なら、受け入れてもらえる。 限界だろうか?
しかし、これでは、小生、納得できず。不満が残る。
萎れた醜い向日葵を、美しく撮れたとき・・・それが作品のゴールなのでしょう。
まだ、撮りようはある・・・と思っています。
- 2014/09/10(水) 19:09:37|
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勝島運河を散歩し、「ひまわり」を撮ろうとしています。

萎れ、醜い姿をさらしていた向日葵の首は切り落とされ、捨てられていました。
ストロボを焚き撮影したので、明るい昼なのに、夜撮影したように仕上がりました。
何か、事件でも・・・と思わせる余韻が残る。
撮り切った感触はない、まだ撮りようはあるだろう。
今日の午後から数日、用事が続き、ブログの更新は一週間くらいストップします。
用事が終了したら、また、勝島運河の散歩を再開します。行けるところまで、撮影してみるつもりです。
- 2014/09/04(木) 10:54:17|
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11月に参加する写真クラブで、展示会をすることになっている。
展示会のテーマは「出会いの刻(とき)」
「出会い」というイメージを追いかけ、何枚か候補を絞った。
直前になって、勝島運河で萎れた向日葵に出会う。カメラに収める。
アッと思った。そうだこれも、出会いのとき・・・「友よさらば」 枯れ行く向日葵に、そんな声を感じた。

以前、このブログに載せた写真の一部です。クリックすれば大きくなります。
「ひまわり」には、健康的な明るいイメージがある。そのイメージで、ひまわりの花を見てはいまいか?ネットをサーフィンしてひまわりの画像を見る。イメージの明るい写真ばかり。群生したひまわり畑を俯瞰し、広角でその一つを強調し、後ろに綺麗な風景が続くフレーミング。美しさが確保した撮影法。あるいは、1つをアップでとって、美しさ、愛らしさを強調し撮影する。
ひまわり・・・、美しい、かわいい、健康的、そんなイメージの写真ばかりがネットに氾濫。いかにキャッチーに撮るか、腐心している。ひまわりって、本当にそうなの??
ゴッホの描く向日葵は、健康的でも、明るくもない。
明るいひまわりには、その底に言い知れない悲しさ、不気味さが潜んでいる・・・・と感じている。
それを撮りたいのだが・・・予定調和を破る写真に、嫌な顔をされ、不評をかい、無視されるのがおちだろう。
それでも撮ろうと思う。

雨が降りそうな天候。ストロボを焚いてライオンのたてがみ似た葉を白く強調したいと思ったが、失敗した。
しかし、このひまわり、話しかけようとする姿を感じる。「また、会おう」と語りかけているのではあるまいか?

暗く焼きこんでみた。余計、陰鬱になる。こんなの写真でないといわれそう。

しかし、これが現実。

綺麗に咲き誇った一瞬の花を撮りたい、その一心でカメラを向けるのだが・・・・
一寸待て、それは、自分のカメラ・アイか? 他人の眼に迎合しているだけでは?と、反省する。
今度は、萎れたひまわりにレンズを向ける。
土門拳の忠告
対象の美しさが写真の美しさでないこと、
対象の力強さが写真の力強さでないことをくれぐれも忘れないで欲しい。
その言葉に従い、もう一度、同じ向日葵を、撮ってみようと思っています。
- 2014/09/03(水) 21:30:09|
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8月30日(土) 三鷹で「撮る阿呆」をしてきました。三鷹の阿波踊りは土曜と日曜の二日、開催されるそうです。
撮った写真のコンクールもあるそうですが・・・応募する気はないので、完全な「撮る阿呆」に徹するつもりです。
カメラは、唯一のデジカメ、Sony NEX-3 を使用。
レンズは固定焦点E16mm F:2.8 、ISO400に設定、備え付けの小さなストロボを、後幕シンクロに設定、強制発光させました。
阿波踊りは、混んでいて、レンズ交換するのが面倒、フィルムカメラでは、絞り、シャッター、ピントの設定、そしてフィルムの残数を気にし、雑踏内でフィルムの交換をしなくてはなりません。どうしても、シャッターチャンスを逃しがち、それに重い。
そこで、今回は軽いNEX-3を手首に下げて参加。これこそ、「お散歩カメラ」です。写真撮るなら軽く小さいデジタルかめらです。その威力をまざまざと、思い知らされました。
E16mmの広角レンズ、カメラが勝手にピントを合わせてくれますが、被写界深度が深いので、気にせず、カメラ任せ。
撮りたい被写体に集中できます。

「びっくり連」とは、あの、高円寺の連です! 同じ中央線沿線ですが、阿波踊りに関しては、東京の老舗、うまいなぁと撮ったら高円寺の連、こちらがびっくりしました。

男の勇壮な踊りも迫力あります。

三鷹市役所の連のようです。道路の四角のサインや、黄色の線、あまり入れたくないのですが、ここは正解でしょう。
PCのモニター画面で確認し、「よく撮れた」と一人にんまりしていました。

この連は、若い人のきびきびした動きが素敵でした。右に大きな空間を開けたのは、そのほうが、ふさわしいと感じたから・・・

新しく連に入った人達か、真ん中にベテランの踊り手がいます。

決まりました。「パチパチ」・・・拍手です。
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この連の女踊りは・・・・いいですね。見とれていて、シャッターチャンスを、失いました。


先頭の踊り手が顔を向けている所を撮りたかったが、小さい。近づいて来たので、構図重視で狙ったら、横顔になってしまった。もう少し、カメラのほうに向いていれば・・・・
広角レンズの使い方の基本は、被写体に近づくこと。いいなと思ったら、さらに一歩前に出て、シャッターを切る。
しかし、道路に入てカメラを構え、悠然と撮影してたら、マナー違反だろう。良識ある老人としてそれはできません。

構図を重視して、トリミングして整える。

こちらは 勢い。
動と静、いずれの踊り手も、踊る阿保などとは言えません。お二人とも、綺麗で、品があります。

この連は、勝手連、飛び入り参加の連かも・・・・個性的な人が、たくさん、それぞれの踊り方で踊る阿呆になっていました。
飛び入り連、面白いので沢山シャッターを切りましたが・・・・大写しになった写真載せても、いいだろうか、と疑問を感じました。
見る阿呆を、写真に撮るなら、事前に断る、あるいは事後承諾貰わないと、ルール違反??だろう。
でも、祭りの空間では許される・・・・そのつもりで、踊る阿呆になったのだろから・・・・
悩ましい。
- 2014/09/01(月) 17:59:24|
- 人物 ポートレート 踊り
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