ローカルな戸越公園ですが、時には高級な一眼レフ(デジカメ)を携え写真を撮っている人もいます。花は盛りを向かえ、レンズは地上の花に向かうのみ、水面の美しい文様には気づ人、ほとんどいないようです。もったいない。

風の吐息で、水面が揺れ、ひと時も同じ文様を続けることはない。
光の具合で彩を変え、水面の下に潜む鯉の戯れの動きに、文様は揺れ動く。

晴れた日のほんの30分ほどのドラマ、その間に、何回デジカメのボタンを押しただろう?

デジカメで撮ると、全て綺麗に撮れるのに驚きます・・・パチパチ撮って、その中から選ぶのが、デジカメ時代の写真術。人の感性はそこで試される。
小生も感性で三枚選んでみました。
撮影30分、PC画面を見ながら選ぶのに2時間もかかりました。
そうは言っても、フィルムに比べ時間は大幅に短縮、撮影後、数時間で撮影結果は判明します。
やはり便利だと肯定しながらそれを否定する気持ちも・・・
今、フィルムに光の映像を与えた、狙ったようなネガができるだろうか・・・と想像する。さあ、帰ったら現像だ。あれこれ夢想しながら帰路につく。この時のときめき、ドキドキ感が、写真の楽しさの大きな要素では? 恋人に逢いに行く感覚に似ています。デジカメか、フィルムか、気持ちは恋人firstでしょう。
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- 2013/09/29(日) 06:36:10|
- 百日紅(さるすべり)
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夕方、小雨が降る近くの公園を散歩。カメラはコシナのBessaR ライカLマウントのカメラです。レンズは一斉を風靡したライカのSummicron 50mm F:2。
BessaRは露出計を内臓していますが自動ではありません。絞りあるいはシャッター速度で露光をあわせる追尾式、使うのは久しぶりです。フィルムはTri-X。

少し違和感がありました。経験からf:2.8/500くらいで撮影できると思ったのですが・・・カメラ内臓の露光計の指示に従うとf;2.8/125・・・夕方、小雨降る条件なので、意外に暗いのかもと思い、その指示に従いましたが、現像してみると、少し濃いネガになりました。露光計が壊れた/故障?と一瞬ドキ・・・思い出すと購入してから電池を交換したことがありません。ボタン電池を取り出し電圧を測ると1.43V。2つ直列で2.86V・・・原因はこれでした。すぐ百円ショップへ行きボタン電池を購入。交換したら、正しい露出を示すようになりました。電気部品の入ったカメラを普段使わないので、こんなことでも、つまずいてしまいます。
背景のボケは、ライカ特有か?ゾナーとは違います。Summitarに似ていますが、それより押さえ気味。

さすがSummicron 端正な写り方。優等生です。

小雨がぱらついているのに、散歩しているのは小生だけではないようです。
- 2013/09/28(土) 10:28:16|
- オールドレンズの密かな楽しみ
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これも 写真を整理していて見つけたもの。夜景のテスト撮影をしていたころで、感度はISO1600にセットされたままでした。

レンズはZoom Nikkor 35-70mmを使用。70mmの望遠側でも40cmまで近づけ、クローズアップ撮影ができるなど使用範囲が広いので、テスト撮影にはよく使います。この日は晴れて風もない良い天気でした。
この老さるすべりが、1年間通って、撮影しようとしているお嬢様百日紅です。今が花の盛りの季節でしょう。池の端の、生垣に塀で囲まれたところにお住まいなので、下々の者は、なかなか近づくことはできません。パパラッチしている? いえ、いつも声を掛けてから撮影しています。盗み撮りではありません。
これが、本当の姿(実)でしょうか? 数歩歩き、池に映った姿を撮ると・・・

今まで見たこともない美しい姿に。一段と艶やかに・・・これが本当の姿か? それとも心を惑わし、小生を欺く仮の姿(虚)でしょうか?
戸越の里では役不足、山里の美しい所にお住まいを移すべきと・・・語りかけているのか? 写真を整理しながら、そんな夢想をしていました。
本当の姿は、虚のほうでは?
- 2013/09/27(金) 06:41:05|
- 百日紅(さるすべり)
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写真を整理していたら、8月の下旬撮影した夜の向日葵の写真が出てきました。
この向日葵、フィルムでは何度か撮影しています。
夜の街を撮影しようと散歩しているとき、ついでに撮ったものです。ISO1600に感度を上げています。

16mmの広角レンズなので、シャッター速度は遅くとも手ブレは目立ちませんが・・・1/5秒なので、地面に座り、膝にカメラを乗せて撮影。このため散歩はいつも作業ズボンです。三脚ならぬ、本物の一脚で撮影。

人間の眼は、暗くなると色彩を感じることから、明るさを感じる方に切り替わっていきます。夜の向日葵、花弁の黄色は分かっていましたがが、葉の緑の印象はありません。空は、灰色でした。夜の写真撮影、眼で見た印象と違う色彩になるので、難しい。また、面白いところでしょう。
レタッチソフトで、見た印象に近づけようと、いろいろ操作し、これでいいかなと、作業を止め、見直すと、何か不自然、結局は色遊びの作り物ではないか・・・と嫌な気分になり、何もしないのがいいだろうと、カメラ任せにしています。
デジタルで撮られている方、どうされているのでしょう?
本格的に、レタッチソフトの使い方、習いに行かないと駄目かなぁ~~
- 2013/09/26(木) 09:12:03|
- ひまわり
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夜の町をテスト撮影していたころ、その設定のまま撮影。あとでそれに気づくとは・・・
全てカメラ任せのPモードで撮影、カメラを信頼している証です。

モノトーンのフィルムでは狙わない光の具合です。
ISO1600では少しノイズがのりました。百日紅の花がもっと明るく写ると期待。
それでも百日紅の赤が効いていると思うのですが・・・如何でしょう?
- 2013/09/25(水) 13:45:30|
- 百日紅(さるすべり)
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健康維持に 1万歩の散歩を心がけています。
カメラは ライカLマウントの一式カメラ。 製造は中国製。距離目盛が狂ったので、修理屋さんに出した。修理屋さん曰く、内部のメカはしっかりしているが、材質や精度は伴っていない。距離計の調整が終わり固定しようとすると動くので、苦労したとのこと。露出計は内臓されているが、気分で表示がでたり、出なかったり。追尾式なので、参考程度と思い、あまり気にしていない。当倍ファインダーでスナップ向きだが、コントラストが低く、見やすいファインダーというわけではない。基線も短くピントの精度はF:2.8程度まで絞らないと確保できない。F:2では時々ピントを外してしまう。設計し、販売にこぎつけた安原氏に敬意を表し使っている。レンズはライカのSummitar 50mm F:2 1951年製、六角絞りでこのころからライカレンズ、コーティングされるようになっています。フィルムはイルフォードのPANF Plus50を使用した。

教育園に入り少し歩いた左側に、サルノコシカケ?かと思える茸が生えていた。木々が鬱蒼と茂り暗い。ISO50のフィルムでは・・・すこし条件が悪い。
しかも、露光計の表示はでない。また気まぐれを起こしているようだ。地下鉄のホームくらいの明るさと判断してf:2 1/30秒でシャッターを切った。
60年以上前のレンズだが、ピントの合った木の幹を鮮明に描き出している。周辺部の解像度は落ちていますが、写真として観賞したとき気にはならない。(と思います。現在のレンズとの比較は・・・酷というもの)背景の木の枝が、「ぐるんぐるんボケ」とよぶべきなのだろうか、面白い。ゾナーでは出せないボケ方である。

池に映った教育園の林を撮影。林そのものを撮るより、水面でボケが加わり、絵画調(Pictorial Photo)になる。

野草の小道を歩いていると、彼岸花が道にまではみ出していました。小道は暗い、相変わらず露出計はストを起こして、返事をしてくれません。彼岸花は赤だけと思っていましたが、白や黄もあるとのこと。これは赤です。黄ではありません。
レンジファインダーで近づける限界近く、1mで撮影。背景のボケ方は、時代を感じさせるものがあります。
ライカ系オールドレンズ特有の描写力なのでしょう。ゾナーのボケ味とは、異なっています。

蜘蛛を撮影したインパクトが心に強く残り、蜘蛛の巣をみると・・・すぐカメラを向けてしまいます。

ようやく露出計の表示がでました。あわせるとf:8/60・・・それでは蜘蛛がつぶれてしまうと、f;5.6/60で撮影。現像後ネガを調べると、f:4まであけて撮影しても良かったかという写真でした。

露光計の指示はf:2.8/60 暗い部分に対して適正露出でしょう。明るいすすきを出したく、家族連れはシルエットでもいいと判断、f:8/60のシャッターを切りました。f:11/60の方が、この表現では適切だったかも。カメラの位置 もう少し考慮すべきでした。構図が今一です。
絞ると、レンズの個性は消えていき、ゾナーとの区別つきにくくなります。(大きく紙に伸ばし、手にとって詳細に見れば分かりますが・・・PCの画面では無理でしょう)
- 2013/09/24(火) 07:51:56|
- オールドレンズの密かな楽しみ
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原因・結果の絶え間ない繰り返しの輪廻の糸に絡み取られている・・・
残酷なものと感じるか、それとも新たな始まりと、希望をつなぐべきか?
「何だ、なんだ・・・」とシャッターを切っていました。

三脚に固定し、マクロレンズでもう少し近づき、構図を決め、f;8程度まで絞り1/15秒で撮影したほうが良かったか・・・この現実を撮影しながら、まだ、うまく撮ろうとする小生の心、少々生臭い。
- 2013/09/23(月) 14:00:23|
- 読み解く写真、心に残る写真を・・・
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pictrial Photoの時代、スタイケンは、夕暮れの光を絵画的に撮影するため、敢えてピンボケにして撮影している。

撮影は1899年 スタイケン20歳の作品です。16歳の時、コダックの「あなたはボタンを押すだけ、あとは・・・」のカメラを購入し、写真をはじめて4年後の作品。当時は近代写真の黎明期、写真を撮ること自体、努力、工夫が必要だったのでしょう。
「前景の湿った土くれにピントを合わせ、林の木々の具合は絞りを調整した」とあります。当時のカメラは全てビューカメラでしょう。前景の土くれにピントを合わせたと述べていますが、作品の印象では、前景も少しピンを外しているように感じます。今の人がこの写真を見てどう感じるだろうか? 下手な写真と感じ(なんだ、ピンボケ写真だ)、すぐ違うページの写真へ、関心は移ってしまうでしょう。
数分じっと見ていると、うまいものだな・・・と、テクニックと光線の読みに、小生は脱帽しました。1903年に撮影した Brooklyn Bridgeなど、構図は現代のマイケル・ケンナ風。美しい写真です。ピンボケで撮影したものか、ポマードをレンズの中心に塗って湿らせたのか、三脚を小刻みに揺らしたのか・・・撮影技法の記述はありません。
ピンを外した写真を撮る! 写真表現の1つの技法になりえるのだろうか? 写真をはじめたころ、ピンボケ写真は失敗作とけなされていました。ピンの合ったところが、表現したい、あるいは、伝えたいと思ったもの、どこにピンが合っているかで、撮影者の意図が分かる・・・
とはいえ、まずテスト撮影。

スタイケンのように、沼地の土くれをと場所探し、したのですが、そのような場所はなく、公園の広場で、夕暮れの光を捉えてみました。距離は10mにあわせました。大きく伸ばすと、看板の文字、「ここには、犬を・・」の文字が、はっきりと読めます。

5mで撮影。変哲もない、つまらない写真です。絞りは、f:2.8 これをf:16の最小絞りにし、1/15秒で撮影すると、ほぼパンフォーカス、手前から無限まで、ピントの合った写真が取れるでしょう。50mmレンズを使いながら、35mmの広角レンズを使ったような写真になります。

2mにあわせると、少しはスタイケン風になりました。それでも、一番手前の砂にピントが合っているようで、そこに視線が滞りがちです。

トリミングして、その部分をカット。これで視線は、前景から、後景まで ふらふらと 動いていきます。少しは空気感(立体感)が出たのでは?(スタイケンの写真の空気感 すごいと思うのですが・・・暗室技術もすばらしいのでしょう)
ピン外しの写真、難しい。空気感を出すには良い技法かも、しかし・・・見るに耐える写真となると・・・

祭りの日の参道、木漏れ日がさしていたので、撮影。光芒にピントを合わせると、下を歩く少年たちの顔がはっきりと写り、眼はそちらに釘づけとなる、写したい光芒は ボーとしているので、ピントをあわせる必要なしと、ピンを外しました。一応成功。写真の質(でき)は良くなくとも、撮った作者の意図は実現したと思います。

キャッチーな写真ではありませんが・・・
太陽は、左後方。歩道の光は、前のビルからの反射光です。手前の光る歩道にピントを合わせました。その光に誘われ視線は、前で信号待ちする人たちへ、さらに、遠くのビルへ動いていきます。
右の女性から、左の信号待ちする集団への動線もあります。また 人の影、電柱の影も、動線を作っています。もし、前の電柱にピントを合わせたら、信号待ちする人たちにピンが入り、視線はそこで固定。空気感はなくなっていたでしょう。今回のピンボケ写真のなかでは一番の作品と自画自賛。
今のレンズは、きわめてシャープ、都会の風景を切り取ると、鋭い輪郭で眼が切られるようだと、わざとピンを少し外し撮影する人もいますが・・・遠くのビル、エッジは丸みを帯び、眼に優しい??
Pictorial Photo 過去の遺物と切り捨てるのではなく・・・Brooklyn Bridgeのような写真、一枚でも撮ってみたいと思っています。
ピン外し、難しい技法ですね、昔の人(スタイケン)の感性の鋭さに脱帽です。
- 2013/09/22(日) 07:42:20|
- 写真の技法
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暦の上で中秋を過ぎました。ススキに眼がいくようになりました。
去年は10月の約1ヶ月間 「すすきを追って」とフィルムカメラで撮影。白黒の写真では、秋の色を表現する(感じる)のに限界がありました。今年は、デジタルでカラー写真かな、と考えていました。去年撮影した、戸越公園のすすきの穂がでてきたので、試し撮影。時刻は4時ごろ、陽は傾きかけています。

やはり、カラーは難しい。フィルムで撮影していたときは、ラボ頼み、現像・焼付けの重要な工程は、他人任せ、ラボの職人(ベテラン)が最適と思われる色に調整してくれたのでしょう。デジタルになると、撮った当人にも、色の調整の道が開けました。
カメラ任せて撮った画像は、茶の色が穂に乗っています。撮影時の印象は、逆光気味なので穂は白く輝くようでした。黄色味は感じません。RAW現像で確かめると、カメラ任せの色温度は4100°K、そこで、色温度を下げ茶の色をなくそうとすると、白くはなるが青味がかかる、彩度を減らして調整すると、見たときの印象に近づきました。
「黄金に輝く仙石原のすすき」の宣伝に毒されているのでしょうか?逆光に黄色味を帯びて輝くすすきの原っぱをイメージしたくなります。色温度を上げ、彩度を少し増せば、そのイメージに近づきます。RAW現像には、色調を変えるバーもついているし、JPG変換、TIFF変換すれば、PHOTO SHOPで、更に色彩のこのトロールが可能です。
しかし、これどういことなのでしょう? 自分の印象に合わせたいと思って・・・「これが俺/私の印象」の御錦の旗を振りかざし、いつしか気づかないうちに、色変換の道を邁進している・・・あまり変換させすぎて嘘っぽくなると分かるのか?あるいは、誰かに指摘されて気づく? 指摘されると、むかついて「これが俺/私の印象」と写真表現のなんたるかをを述べて批判者を黙らせる? ・・・しかし、どこかでストップさせる歯止めはあるのかなぁ。だいぶ厄介な問題を抱えているように思います。
やはり、白黒のネガ写真のほうが、潔よい、すっきりする。

撮影場所は「目黒自然教育園」と書きましたが、正式には「国立博物館付属自然教育園」、これでは、どこ?ということになるので、通称として、目黒の自然教育園と言っています。一番近い駅がJRの目黒駅だった関係です。(現在は、地下鉄の白金台が最寄です)ただし、目黒駅は上大崎で品川区、駅を降りて、自然園に向かう途中は、品川区、高速二号自動車道を超えると港区になり、自然教育園は港区にあります。地名で考えるとややっこしい。
右下にボーと菖蒲の黒い葉が入ってしまいました。ファインダーを覗いていて、気づかなかった・・・モウロクしたものです。

自然教育園には、「すすき」を撮りに行ったわけではありません。スタイケンに触発され、ピンボケ写真で写真表現が可能かどうか試そうと、池の反射した光を撮ろうと行きました。カメラはピンボケ具合が確認できる一眼レフカメラ、水面の反射コントロールのためPLフィルターをつけています。結果は、思うような光線状態の場所がなく、野草とススキの撮影となってしまいました。
ピンボケ写真で写真表現が可能か・・面白いテーマなので、再度、戸越公園の池で挑戦してみます。だめなら・・・池田山公園の池・・・・林試の森の池・・・
- 2013/09/20(金) 08:03:42|
- 樹、草、花
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9月初め、戸越公園で羊歯の秋を撮影。約2週間後の昨日(9月17日)視点を変えて同じ羊歯を撮影してみました。
秋は確実に深まっています。

3時過ぎ、木漏れ日が、羊歯の葉を照らしていました。この写真、眼で見た印象に近いものです。

今回はRWAで撮影、現像ソフトでJPGファイルに変換。RAW現像ソフトの色温度をスライドさせたら、このような画像になり、びっくりしています。すっきりとさわやかで これもいいなぁ・・・ これが、デジタルの威力なのですね。
フィルムの時代、色温度の調整は難しく、変換フィルター選びは、ほとんど勘の世界でした。これがため、小生、カラー写真はほとんど撮ったことありません。プロの写す美しいカラー写真を、指を加えて見るだけでした。
光(色温度)を自由にコントロールできる! まるで全能の神になった気分です。
デジタルカラーへ、一気に時代が移ったのが、よく分かりました。
不完全な人間が、全能の神? ちょっと危険な気もしますが・・・
- 2013/09/18(水) 11:05:51|
- 映し出された世界
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19世紀の終わりごろ、青年スタイケン(Edward Steichen)は独学で写真を撮っていた。そのころの主流は、Pictrial Photo(絵画調写真)。
米国ミルウォキーの田舎の町に住むスタイケンは、印象派という言葉も知らなかったが、印象派風の写真を撮っていたと、後年振り返って述べてます。当時のカメラは、絞り、シャッター速度、ピント・・・すべて撮る人に委ねられていた。簡単なカメラだからこそ、創意工夫して、さまざまな技法を編み出している。
わざとピンボケにしたり、三脚の振動を加えブレ写真を撮ったり、レンズを湿らせソフトフォーカスを演出したり・・・今、彼の本を読み返しても、教えられることが多い。
三脚に振動を加えたというブレ写真に挑戦してみた。
手ブレは、本来あってはならないもの。カメラ初心者には多いエラーの1つです。今は、手ブレ防止の機能がついているので、手ブレ写真は減りました。手ブレは、たいがい写真の出来を悪くさせます。それを積極的に使い、絵画的表現に高めようというわけです。

カメラを動かす「流し撮り」は、写真の技法本には必ず記述があり、試された方も多いと思います。45年ほど前、スキーを楽しんだとき、流し撮りをしたことがあります。当時はNikon Fに105mmの望遠をつけていました。技術がつたなく、うまく取れなかったからでしょう。それっきり、1回のみの撮影でした。今回の撮影は、それ以来の2回目です。どうなることか と心配しましたが、NikonSP 50mmレンズ、レンジファインダー等倍の威力ですね。流し撮り、きわめて容易に撮影できました。

速度感を出すため電車をブラそうと、カメラ固定で撮影すると、ブレるのは電車だけで、面白みがありません。電車も、背景もブラしました。ただし、架線や柵の横線を鮮明写すことにより、速度感を演出しようと、架線に沿ってカメラをブラしました。画面に、ブレないものがないと、速度の比較になりませんよね。風景のブレは、電車に乗った人が見る光景、電車のブレは、外から電車を見る人の目、ブレない架線は、撮った人の目・・・(そういう多重構造の写真を撮っている。撮影者のスタンスが良く分かる写真と・・・好意的に深読みしてくれないかなぁ。)

手ブレの量を増やし、何を撮っているか良く分からない写真。それでも、文様が面白ければ、見る人も深読み、勝手に解釈してくれるでしょう。もう少し足を伸ばし、東京タワーが見える位置まで移動し、上から下に向かいブラして撮影すれば、白くなった空の部分に 鋭く三角の塔が入るでしょう。画面はキャッチーになりますが・・・老人の足は限界に達していました。意多くして、あし足らず。

1/15秒のシャッター速度ですから、手持ちで撮れば、注意しても手ブレします。エスカレータに乗っての撮影なので、更にブレが加算。空に向かって、上昇する中年男性の後姿が2つ。なんとなく意味深ですな。
上に広がる空は希望?でしょうか。いえ、中年男性の背に、これ以上昇できない社会の閉塞感とせつなさを感じます。空は、硝子の天井(glass ceiling)でしょう。 (と大げさな表現で記述、実際は、後付けの勝手な解釈/弁明・・・です。)コンポラ写真の時代、もっと画面をアラした写真が、雑誌に載っていた記憶があります。当時のカメラマン、写真表現として、何を狙っていたのか?昔のカメラ雑誌を、今再び、拾い読みしている状態です。

これが、スタイケンが狙った、印象派風絵画写真? 気分転換に、たまに撮るのはいいけど、芸術的センスのない小生には、内容のない受け狙い写真に堕落する危険性ありますね。危険、使い方注意。
- 2013/09/16(月) 11:10:42|
- 写真の技法
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本日午後(9月14日)写真グループ「彩遊」の打ち合わせがあり、新橋へ。
打ち合わせ終了後、駅前を 30分ほど スナップしてきました。
使ったカメラは、ソニーのNEX-3。レンズは、コンタックスⅠ時代のゾナー50mm F:2。レンズの製造番号から1933年製 御年80歳のレンズです。歴代の所有者が、大事に、そして過酷に、使われたのか、小生の掌に乗ったときは、前面のガラスは曇りガラス状態・・・大事に拭き清められ過ぎたようです。
古いレンズを、最新のデジカメで使用。趣味の世界ですね。、
帰ってきて、直ちにブログに載せることができました。便利です。フィルムではこういうわけにはいきません。

このレンズ、強い光があると、細かな拭き傷で反射しフレアーがかかります。時にはそれが ソフトフォーカスレンズの味わいを醸し出すと、贔屓目に評価しています。・・・本当はジャンク品、ゴミ箱行きのガラクタレンズでしょう。
看板の文字「新橋のハイボールは角から。」が、霞んでいます。現代のレンズでは、キリキリに写ってしまう・・・そうならないのが、このレンズの 奥ゆかしいところでしょう。自転車にピントを合わせています。大きく拡大しても、自転車、現代レンズ並みの解像度で写っています。問題は周辺部の解像度低下でしょう。

街頭に灯が点りました。オレンジ色の光芒、凄みがありますね。古いf:2ゾナーでも、細かな傷がなければ、電灯にこのような光芒は出ません。欠点を長所に・・・人材ならぬ玉材活用術。

ミスマッチのような、うら若い女性が通り過ぎるショットもあるのですが・・・「プライバシー」の問題もあるかも(三ツ星レストランも前ならOKでしょうが・・・)と、割愛しました。替わりに 人なしのカットを載せます。画面の周辺部にフレアーが残っています。

50mmレンズ、NEXのAPSのサイズだと、75mmレンズの画角に相当。もう少し短いレンズで、前に1歩出て撮影できたら、街灯の曲がった部分まで入れることできたのでしょうが・・・まあ、これもスナップショットです。周辺部の解像度低下とフレアーが出やすいため、独特の写りになっていると思います。鉄塔は錐のように鋭くは写りません。ソフトフォーカス、眼には穏やか、こんな感じも良いなぁ。
擦りガラス状態のレンズ、また別の味わいが出てきます。これで、ポートレート写真撮ったらどうだろうと、楽しみにしています。
- 2013/09/14(土) 22:18:07|
- オールドレンズの密かな楽しみ
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露光している間に、ピントをずらす方法は、日本独自に開発されたものかも知れません。昭和初期(1930年台)アマチュアカメラマンが、編み出した技法のようです。
ニコンFを購入した当時、戦前アマチュアカメラマンだった祖父から この技法のことを聞いていました。
「ピントは合っているのだが、露光中、ピントを外すので、外した部分がボケて、フレァーがかかったようになる。それは、ソフトフォーカスレンズで撮影したように甘くていい感じになる。」
ブログを見ていたら、花火の撮影にこの技法を使っている人がいた。祖父の言葉を思い出し、懐かしい気がした。
この技法は、ソフトフォーカス効果を狙ったもので、花火の撮影に使うなど、当時(昭和初期)の人は、思いもよらなかっただろう。花火の火の粉が、ボケて、つながり幾何学的な文様になり、そこを面白がっている。
どんなものか、試してみた。

庭の万年青をテスト撮影。フィルムはISO50の低感度フィルム、ND8のフィルターをつけて無理やり長時間露光の1秒確保。まずはピントを合わせて撮影。ピントが合い、万年青の葉が克明に写しだされている。

つぎに 同じ条件でシャッターを切り、一呼吸しすぐにピントをずらす。
これが、祖父の言う擬似的なソフトフォーカス効果。昔は、この手法で、女性のポートレイトを撮り、仲間で見せ合い、自慢していたのだろう。当時の人は、花火の撮影など、思いつかないと思う。
ソニーのNEX-3でをもちだし、この技法を試してみた。

ND8の減光フィルターをつけ、絞りもf:22まで絞ったので、露光時間は3秒を越えていた。木漏れ日が線のようになる。

ピントをずらすタイミングで、その効果を加減することができる・・・これは、撮影しすぐに効果を確認できるデジタルカメラ向きの技法のようです。露光している間にズームする技法もあるが、それでは、屋台の文字まで大きくぶれるので、効果は違っている。

これが、昭和初期の人たちが狙った写真でしょう。シャッター速度を1/2秒ぐらいに上げたほうが、よかったか?シャッター速度とピントをずらすタイミングが、この技法の要のようです。コツを捕まえるまで少し習熟が必要でしょう。フィルムで撮影したとしたら、かなりの没フィルムが出るでしょう。はやらなかった理由ですね。

このあたりになると、ベス単眼はずしのようなテーストに仕上がります。面白いですね。古いピンずらしの技法、デジタルカメラの時代になり、また、復活となるかも。撮るのは簡単です。試してみませんか?
- 2013/09/13(金) 06:11:23|
- 写真の技法
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若い樹のように花が咲くのかと心配していましたが、艶やかに咲き誇っています。水面に投影された姿はニンフ?のよう・・・と、語りかけ、撮影。
午後の2時半から3時半までの1時間、その中でも、光が良いのは30分程度。曇ったら駄目。風が吹いたり、池の鯉が跳ねても、その文様は複雑に変化。その移ろい行く瞬間を捉えることができるのが、写真という魔法だなぁ・・・

風がないとくっきりと鮮明に。・・・現実の百日紅より艶やかです・・・そう、スクリーンのなかの女優は生身より素敵です。

こんな姿もあるんだ。すごい演技力。

モネの睡蓮のよう、良いですよ。

印象派の絵の雰囲気があります。

これは、南の島の風を感じます。花柄の服を着た島の娘が佇んでいたら、ゴーギャン風な写真になっていたかも。しかし、そのイメージに近づけようと、はめ込みの合成写真は作りません。あくまでもストレートフォト、移ろい行く瞬間を捉えるのが面白いと思っています。(できなかったら、それも良しと割り切る。)


また違った演技力を見せてくれます。(老)百日紅さん、すごい!

9月一杯、花は咲き続けるでしょう。まだ、撮影のチャンスはありそうです。
- 2013/09/11(水) 07:48:22|
- 映し出された世界
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1枚の印画紙に、多数のネガを使用し、1枚の画像を作る合成写真(Composit photograph)が作られたのは、写真が発明されたごく初期の19世紀末のことでした。絵画のような表現を求めた結果、盛んに製作されたようです。近代の写真は、そこからの決別・独立で始まったといえるでしょう。
しかし、21世紀に入り状況は変化しました。デジタル時代になると、レタッチソフトでレイヤーを重ねれば、多重露光や、モンタージュ写真(合成写真)は、ごく簡単にできるようになりました。また、世紀末のPictrial Photoの時代に戻るのでしょうか?
ネガ上に、(細心の注意と、煩雑な操作で)多重露光することと、レタッチソフトで簡単に同じ効果を実現すること そこに本質的な差はあるのだろうか? 考え込まざるを得ない。
ならば、一度合成写真を作ってみようと、没になった写真から樹と月の写真を選んで合成写真を作ってみた。使ったのは10年以上前のレタッチソフトPhoto Shop Ver.3。 最新版ではありません。

これは、今年の戸越公園の夜桜です。見所のない写真だったので没になっていました。満月をはめ込むことで、画面が引き立ちます。(キャッチーになる。)夜桜は50mmで撮影。満月は300mm程度の望遠で撮影した大きさになっています。しかし、300mmレンズで 遠くから狙い、絞りを利かせれば、桜と月の大きさの割合、撮影できるところ、どこかにあるかも・・・と、心の中で納得させ、違和感を覚えません。(全てのことを懐疑的に見る人は、まれ、大概は、好意的に解釈しがちです。)
合成写真と断らないと、「センスいいな。ベストタイミングを選んで、的確に撮っている・・・」と、よい記憶を残しながら、次の写真へ眼が行ってしまうでしょう。
しかし、合成写真と知ったら、「なに、だまし絵か、受け狙いかよ」と馬鹿にされるのかも。

一瞬 見ただけでは、月がくっきりと撮れたいい写真という印象ですが、じっと見ていると、不自然さにすぐ気づくでしょう。林の撮影は夕方の4時ごろ、北東の方角を写しています。月が昇っても、この位置に来ることはありません。300mmの望遠で狙って、画面上部から下がる枝を撮ることは不可能です。樹の根元から300mm望遠で見上げたら、この構図の写真は撮れないので、すぐに合成写真と 判断できます。
表現したいイメージがあり、それを実現する手段として合成もありえるとは 思います。
あいにく、そういう内的な必然として、イメージを表現したいという芸術的なセンスのない小生のような身では、合成写真は、受け狙いで、キャッチーな画面を作って、注目を浴びたいという姑息な手段になりかねないでしょう。
先日、某有名メーカ主催のコンクール入選作品展を見てきましたが、入賞作には、合成写真(好意的に表現すれば、作る写真)と分かるものを 散見しました。全体の10%くらいでしょうか。時代は、確かに、それを受け入れています。
あ、フォトモンタージュだなと分かるものには、その異様な組み合わせから、20世紀初めのシュールレアリズムのテーストを感じます。確かに1つの表現でしょう。
問題は、最初に載せたような作品でしょう。フォトモンタージュと気づかせない写真。現実のストレートフォトと受け止めかねない写真。「すごい、ベストタイミングで撮っている! いい腕しているなぁ」と賞賛。これって、いいのだろうか?と考え込まざるを得ない。
ブログを見ていたら、すごくいい写真があったので、見入っていると、何か不自然、合成写真と気づく。数々のコンクールで賞を取る人のブログなのだが、残念な気がした。すると 他の作品まで、合成ではないかと疑心暗鬼になってしまう。そんなことしなくとも、いい作品を作る人なのに・・・一言、これは合成ですと断ればいいのに、と思ってしまう。
今や、写真のレタッチ加工は当たり前、写真をキャッチーにするのに何が問題かと反論されそう。疑問を感じる小生のほうが おかしいと 言われてしまうのだろうか?
- 2013/09/10(火) 07:16:32|
- 写真の技法
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百日紅の撮影を1年間続けてみようと思って、時々戸越公園を散歩します。カメラを携え通っていると、今までは気づかなかった季節の移り変わりを、少しずつ感じるようになりました。花好きな人が、花の写真を撮り続ける気持ちが、少し理解できた気持ちです。

8月31日に撮影したもの。すでに、羊歯の葉の紅葉?は始まっています。

3日後、秋が立つのを感じました。
光線の具合が、枯れていく羊歯の葉を強調しているだけなのでしょうが・・・
背景の水面の印象が、眼とデジタルカメラでは、異なります。まごつくところですが、また 面白いところですね。
- 2013/09/09(月) 07:00:16|
- 樹、草、花
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フォーカルプレーンシャッターカメラでは、フィルム巻取りが、シャッターチャージと連動しているので、二重露光のエラーは起きませんが、昔のレンズシャッターカメラでは別操作、二重露光する危険が常にありました。
その、失敗ネガから思いがけない画像が出てくることがあり、面白がって、それを積極的に技法として使う人も居ました。何回も画像を重ねてネガ上に記録するわけなので、図形感覚の優れた人向きの技法です。
去年、「薄(すすき)を追って」を撮影していたころ、ススキを二重露光で撮影したことがあります。
結果は失敗作のオンパレード。没にして、薄の写真には入れませんでした。
手法は簡単、撮った画面を絵コンテにしておき、フィルムを巻き戻し、重ねる画像を、その絵コンテを元にフレーミングし撮影。
作品の出来は、センスで決まります。残念ながら、そのセンスのなさを思い知りました。

戸越公園でまずススキを撮影しておき、五反田へ移動し、ビルを重ねて撮影。シュールレアリズム的な写真でしょうか?

常識を覆すような光景を作ることができます。(作る写真) 一瞬あれ、と注意を引いても、写真そのものの質が高くないと・・・やはり駄作でしょう。技法は簡単、しかし、使いこなすのは難しい。
ネガ2枚重ねて引き伸ばし機にセットして焼くとか、印画紙に露光したあと、ネガを替え、覆い焼きなどの技法で、自分のイメージになるよう多重露光するなど、手の込んだことをする人も居ました。
現在は、デジタルの時代、レタッチソフトでレイヤーを重ね、合成写真の領域に入っているので、いまさらということかも・・・
忘れさられるべき技法ということでしょう。
そんな、忘れ去られた技法ですが・・・もう一度 見直してみようかと 思っています。

銀塩の多重露光の写真 見かけなくなりましたが、だれか、チャレンジする人居ませんかね?
- 2013/09/08(日) 07:17:10|
- 写真の技法
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月に1回は、新橋、銀座、有楽町近辺に、出かけます。用事が済むと、それから1時間程度は、お散歩カメラの時間。面白いと思ったら、ファインダーを覗き、シャッターを切る。
9月2日、有楽町へ。
8月27日の「歩道に出てきた銅像」の意識が残っていたのでしょう、街角に置かれている銅像に 眼/カメラは向いてしまいます。

数寄屋橋交差点近くの、この像は有名ですね。おのぼりさん状態で、パチリと撮影。

少し、引いた撮影もしましたが、妙齢の美女が通りかかり・・・映り込んでくれたらいいのですが、そぐわない人が入りこんだり、自動車が出てきたりと、シャッターチャンスがありません。最長5分待って駄目なら、諦めるのが、小生のお散歩カメラ。ブレッソンのように8時間もじっとそのチャンスを待つことなどできません。

これは、数寄屋橋交差点の交番横に設置された像です。逆光なので、像の材質感まで出すならf:2.8まで絞りを開ける、背景の街に合わせるのなら、f:11~f:8程度だろうと光を読み、像の輪郭が出ればいいと、f:5.6を選びました。現像すると、意外とネガの濃度上がっていません。f;4で撮影するのが正解だったかも。
左に空間が少なく窮屈ですが、日傘する女性の姿を入れたくてシャッターを切りました。タイミング、一瞬遅いようです。

有楽町のガードをくぐり、丸の内のビジネス街へ。中通りには、銅像が何体か置かれています。定期的に交換するようで、それを楽しみに来ています。これは、新東京ビルあたりに置かれていた作品、町おこしの像とか、記念碑的なものではなく、芸術作品とよぶべきものでしょう。東京駅近くまで歩けば、更に撮影できるのでしょうが、今回は、家に帰る時刻が迫っていたので、ここまで。約1時間、15コマほどの撮影でした。
デジタルだと50コマくらいボタンを押していたでしょう。いくら撮ってもコストに跳ねかいらないからとは・・・現金なものです。数撮れば、それだけいい写真が沢山撮れるかといえば、そうでもなさそう。総量は変わらないようです。同じ人間が撮っているから・・・同じなのでしょう。
でも、デジタルにはデジタルでしか撮れないものがあることは確か。このごろはNEX-3を手にすることが多くなりました。・・・ハードディスクのクラッシュは 本当に怖いのですが・・・。
- 2013/09/07(土) 07:40:15|
- 都会の景観 Tokyo
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老百日紅にも花が咲きました。
8月6日 数房の花が。

アップで切り取れば、年齢は関係ありません。「綺麗ですよ。」と百日紅に声を掛けました。

8月9日 3日後には、花の房も増えてきました。


8月12日 アップで切り取りましたが、木陰の花なので、背景は露光オーバー、空が白くなってしまいました。このあたり、白黒フィルムと光の読み方が異なります。カラーでは背景の明るさを合わせる必要がありますね。

公園の森を背景に撮影。このほうが引き立ちますね。

8月13日 手が届くところまで、咲くようになりました。
手を伸ばし、ノーファインダーで撮影(ボタンを押しただけ)。カメラが、ピントを自動で合わせてくれるので、こんな撮影も可能になりました。

8月28日 花は最盛期を迎えようとしています。桜の古木が大胆に画面を横切っています。85mm程度の望遠レンズに替え、前に出て写すせば、幹は入りませんが・・・それでは、ありきたりでしょう。面白くない。老百日紅には、老桜がよく似合う。この公園は、老人の憩いの場所でもある。

どの花にピントを合わせたら良いのか、迷います。「迷うぐらい、綺麗です・・・」

8月29日 やっと青空を背景に撮影できました。

カラー写真は、慣れないせいか、難しい。花の色も、逆光気味だとピンク、順光で、赤みが強くなる。液晶画面でフレーミングしているとき、「ああ、すごく綺麗な色だ・・・」と思っていたら、写してみると、そうでもない。まだ、コツが掴めません。
ハードディスクのクラッシュ、意外と深刻な結果になりました。デジタルで撮影したデータ、3割程度は戻らないでしょう。フィルムで撮影した分は、一部ですが、またスキャナーにかけて、デジタル化することになりそうです。そんなことに今悪戦苦闘しています。
- 2013/09/05(木) 08:01:34|
- 百日紅(さるすべり)
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PCの調子がおかしく、そろそろ 買い替えないと駄目かと思っていたら、外付けのハード・ディスクがクラッシュし、保存してあった画像データがすべて飛んでしまった。フィルムで撮ったものはネガがあるので、再度スキャナーで取り込めばいいのだが・・・量が多いし・・・カラースライドは、更に経年劣化が進んでいるだろう・・・と少しうんざり。
デジタル写真は、完全復元できないだろうが、一部は、CD、DVDに焼いて保存してある。円盤をセットし、画像を読み込む。その中に、懐かしい写真も出てきた。

中国、寧夏回教自治区、自治区首都の銀川市から、車で1時間くらいのところにある、西夏王陵で撮影。西夏はジンギスカンの申し出を拒否し、戦っている。勇猛な部族であったようで、銀川市より、南の固原の戦いのとき、ジンギスカンは病死、部隊は退却。しかし、次のフビライハンの時には負け、部族は皆殺しの悲劇をむかえる。無人となった、この地には、シルクロードを伝わり、回教徒が来て住みつくようになる。それから、元、明、清、国民時代と、なかば独立した国として存在していたようだ。
しかし、現在、漢人の入植も進み、人口比でほぼ半々とのこと。

背景に見える山脈は賀覧山。砂漠とはいえ、この山脈に雲がぶつかり雨が降る。賀覧山脈と黄河に囲まれた銀川市を中心としたこの地域は、緑が豊かで、農業が盛んである。ここでとれた銀川米は、大変おいしい。日本と同じ短粒米である。しかし、この地の人は、麺が好きで、米はあまり食べないようである。おそらく金になる米は、南方に売り払うのだろう。小麦文化圏である。中国の麺は、腰がなく、がっかりすることがあるが、この地の、麺は腰があり、おいしい。蘇州から来た中国人も、同様な感想を言っていた。(と、通訳の人が教えてくれた。)
中国は、面白い。北と南、同じ民族とは思えないが、それでも漢民族を名乗っている。日本列島も北から南まで長い、2000年ほど前から混血が進み、日本人もさまざまな顔がある。中国人にとっても、日本人を見分けるのは困難で、黙っていたら、わからない。習いたての中国語で挨拶したら、南方から来た同胞と間違えられていた。南方の中国語は発音がまったく異なり、わからないそうである。

寧夏の小さな、村/町に入ると、小生の幼児期の光景が広がっていた。
町並みは、戦後まもなくの東京のようだ、道路の舗装は剥がれ、土がむき出し。戦費に取られ、町並みの暮らしは破壊されていたのだろう。食糧事情は更に悪かったのだろう、幼児のおできは、当たり前。食糧事情に関しては、この地と、天と地のさがある。
この町並み、今、急速に変貌している。
もうすぐ綺麗な街になってしまうのだろうなぁ。
その前に、もう一度、いってみたい・・・
- 2013/09/03(火) 09:32:32|
- 遥かなる寧夏
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10年ほど前、銀座、丸善で、時間つぶしのつもりで本眺めていると、カール・セーガンの”THE DERON-HAUNTED WORLD”という本を見つけた。パラパラと拾い読みすると、面白い。あの天文学者かと気づき購入。カール・セーガンは、惑星などの研究をした科学者である。地球外生命の可能性も探求していた。しかし、検証がいい加減な論に関しては、厳しく望んでいる。

この写真を引き伸ばしたとき、ふと、カール・セーガンの本、THE DERON-HAUNTED WORLDを思い出していた。
彼だったら、どうコメントするだろう?
笑ってしまうだろうな。
地球外生命体が、地球に降り立ち、探検しているような写真になっていると思いませんか?

知的生命体が、地球で見たものは・・・・?

人間は、自分自身を家畜化する動物。村八分にされることを恐れ、大きな流れに乗ろうとする。カリスマ的人物の出現を待ち、指導者を求め、その下で活動する時、心の平安が訪れる。オカルトにはまり、携帯のラインでつながり、仲間との小さな村社会をつくりたがる。今の若者は中学2年生になると、携帯電話を持つという。外に開かれたITの世界に入っているのに、仲間内のツイッターやブログにのめりこむという。コメントを書かないと、仲間はづれになるのではという心理が働くようだ。面白くなくとも、お追従を書き、空気を読むという。

FC2のブログ見ても、たいした写真でないと思うのに、拍手が集まり、コメントが沢山載るブログがある。そのコメントを読んでみる・・・これも仲間内のブログなのだろうなと、思う。
ブログ、ツイッター、楽しくなければ誰がする?
我々、自覚しないだけで、意外と閉ざされた世界に住んでいるのではないだろうか。
人間世界、少し歪んでいませんか?
(キリスト)教会の権威、世界はこうして作られたとう考えが支配的なとき、それに異を唱えたのは、ガリレオ。免罪符のインチキを告発して、宗教革命。魔女裁判の不当さ、国王の権威の否定から、Democracy(民主主義)が出てきたという歴史がある。Science(自然科学)はその申し子。
カール・セーガン先生によると、米国民の15%は、民主主義と自然科学の関係を正しく理解しているという。
だから、紆余曲折はあっても、民主主義社会は機能するという。
しかし、日本では・・・おそらく1%程度ではないだろうか。(カール・セーガン先生の言う、15%とは、統計学でいうUpper1σをさしていると科学者の端くれとして推察。日本は2σと思いたいが、在職中、研究者達と議論したが、はっきり認識している人は少なかった。Upper 3σ、1%程度と推定した。)
それだけ、民主主義は壊れやすいともいえる。
人々の心の中で、「世界はかくあってほしい。」という願望が、「こうあるべきだ。」となり、さらに「こうだ。」と確信となったとき、自然科学は成り立たなく似非科学になる。化学(Chemistry)は似非化学(Alchemistry)となる。そしてTHE DERON-HAUNTED WORLDとなる。
「確信は、嘘より危険な 真理の敵」
自戒を込めて、
AlchemistSasaki
- 2013/09/01(日) 15:41:39|
- ???
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