スタイケンは学校を卒業(15歳)すると1894年リソグラフの工房に入る。
スタートは週給25ドルだったが、すぐ才能を開花させ、4年後には50ドルになっていた。
給料は申し分のないものだったという(庶民が稼げる最高額)。
そして大型の乾板写真も撮るようになる。
1899年に撮影した "The Pool-Evening, Milwaukee,1899"は
10年ほど前のオークションで100万ドル近い額で落札されたという。(正確な落札額は覚えいない)
その頃の作風はピクトリアフォットと言うべきもの。
1905年にスティーグリッツとPhoto-session 291号室を作るが、まだ、スティーグリッツの影響は少ない。
スティーグリッツと会い、彼の話に触発されたか、同じ被写体を、スタイケンも撮っているが、
必ずしも、まだストレートフォトをメインにするということではなかった。
それは、スタイケンが資産家の息子ではなかったことが大きいと思う。
構図と当たる光に留意して、著名人のポートレートをピクトリアフォット風に撮っていた。
クライアントの求めるポートレートは、会画風の重厚なもの、
その欲求を満たすものでないと、商売にはならない。
あるいは、雑誌社に確実に売れることが必要だった。
作風が、ストレートフォットに傾いていったのは1915年くらいからだろう。
スティーグリッツは、写真を絵画とは異なる別のアートと位置づけようとしていた。
資産家なので、お金には頓着しない。
写真を売って利益を得ることは二の次だった。
被写体の多くは、都会の風景、市井の人間をカメラに収め、
ポートレートはあまり撮らない。
撮るとしても家族(娘)や友人の範囲に留まっていた。
スティーグリッツはアマチュア、スタイケンはプロ(商売)が立ち位置だった。
この関係では早晩分かれざるを得ない。
二人は数年で、分かれていく。
小生の撮る写真も、身近なものばかり。
金になるような写真は一枚もない。
資産家の息子ではないが、まだフィルム代くらいの余裕はある。
カメラも古いものを修理しながら使っている。
現像は薬品を調合し、自家現像。
極力薬品の使用量を減らした現像液にしているので、
薬品代は一本現像しても20円くらいに抑えられている。
小生が、銀塩フィルムカメラで楽しめる(趣味)のは、
これまでの写真技術の発達とコストダウンのおかげだと思っている。
19世紀末、スティーグリッツやスタイケンは、カメラに出会い「写真に取り憑かれてしまう」
当時、ようやく乾板写真が発明される。
12インチ×10インチ、8インチ×10インチの硝子乾板を、木製のカメラに装着し、写真を撮っていた。
カメラは高嶺の花。乾板も高かったと思う。
一枚の写真を仕上げるにも大変な労力が必要だった。
20世紀の初め頃、フランスの大金持ちの息子、ラルティーグ少年も
同じように木製カメラで12インチ×10インチの乾板写真を撮っている。
カメラをセットし、構図を決め、乾板をセットし、撮影する。
一日 頑張っても2枚の写真を撮るのが精一杯だったという。
スティーグリッツはネガ乾板からプラチナプリントしているが、
スタイケンは、プラチナプリントだけでなくGumプリント、カーボンプリント(?)など多彩。
ガムプリント、カーボンプリントとなると工程が長く、技術の習得には時間がかかり、
いまとなっては失われた技術、行う人は希となった。
でも、ユーザーの求めるものであれば、ピグメントプリント(ガムプリント)を、せざるを得ない。
一枚撮り、一枚の写真にするにも、大変な労力を要した。
それが、フィルムとなり、小型カメラが開発され、機能的に洗練され、カメラが使いやすくなる。
一本で続けて36コマの撮影もできる。
露出計が内蔵され、AEが当たり前になる1960年代になると、
一眼レフカメラが売れ、誰もが「カメラマン」の時代に入る。
カメラがAE化されて、難しかった露出の呪縛から解放されたことが1965年から1975年の
日本写真の隆盛を呼ぶ。
その分、一枚に費やす人の熱量は減っていく。
危険な兆候だが、これが何を意味するか・・・当時は、気づかない振りをせざるをえなかった。
デジタルになり、一枚の写真に籠める人の熱量は下がっていく。
こんな写真、撮れないなぁと嘆息するほど素晴らしいデジタル写真が吐き出される。
簡単にできることに、大きな価値は見いだしにくい。
誰でもできることに、だれも敬意を払わない。
写真は綺麗に撮れて当たり前の時代に入った。
良い写真とは?と考える必要はない。
面白い写真、お洒落な写真と思ったら、褒め言葉が出てくる。
おそらく これがスティーグリッツの夢みた写真の行き着く先、
その終焉なんだろう。
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2023/06/03(土) 22:43:39 |
写真にとり憑かれた人達
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スタイケンの家族はオーストリアからの移民だった。
母親が、しっかりとした人だったのだろう、
夫の健康が優れなくなると、帽子屋を始める。
ミルオーキーの田舎町、道の舗装はされていない。
帽子は、必需品に近い。商売は当たり、
生活には困らなくなる。
子供の教育にも熱心だった。
スタイケンも賢い(頭脳明晰)で、小年時代、写真に興味を持つと、
自宅の階段下の物置を暗室に改良し、写真を撮るようになる。
いろいろな薬品を持ち込み、暗室に入る息子をみて、
母親は、息子が暗室内で倒れているのではないかと心配したそうである。
階段下を暗室にすることを許可した母親もすごいなぁと思う。
学校を卒業すると、リソグラフの工房(宣伝広告を作成する会社)に入社する。
持ち前の美的感覚、器用さから、たちまち、図抜けた職人に成長する。
1900年の初め、21歳のとき、それまで貯めた資金を元に、
スタイケンはフランスで絵画の勉強をするためニューヨークへでる。
そこで、ステーグリッツに出会う。
フランスでは入った美術学校は、古くさく、芯の通らない先生に嫌気が差し、
すぐに止めてしまう。
当時のフランスは、写真発祥の地、絵画より、興味が引かれたようだ。
そこで、彫刻家、ロダンの元を訊ねると、ロダンに気に入られる。
よく言えば、コミュニケーション能力の高い人。
人当たりが良く、相手の懐に入るのが上手い。
悪い言えば、人垂らし・・・・
「写真は浅薄な正確」と
写真にネガティブな考えを持つロダンに取り入ったのだから、すごいものだと思う。
何度か、ロダンの元を訪れ、ロダンのポートレート、制作中の像とロダン姿などを 写真に収めている。
1902年にニューヨークへ帰国するが、
彼の撮した写真はピクトリアフォット風のものが多い。
ステーグリッツとPhotSession"291"を始めた前後より、
ストレートフォットへ、作風は変わって行く。
かれが どう行動したか、どんなことを為したか、本で確認していくと、スタイケンの凄さが浮かび上がってくる。
頭脳は明晰、企画力、世の動きを読む力、人を集めそれを纏める力、そしてそれを実行する力はすごい。
もし、彼が、ステーグリッツのような裕福の家庭で生まれていたら、
一流の大学をでて、起業し、大きな会社の経営者になっていたかもしれず、
あるいは、政治家を目指したら歴史の名を残す政治家になっていたのではないか、と想像してしまう。
芸術志向(ある意味偏狭)のステーグリッツに対し、
より現実的なスタイケンは、
互いの求める路線の違いから
第一次世界大戦前頃には離れてしまったようだ。
このあたりの人間模様、
彼等の作品を見比べ、写真集に記載されたエピソードを読み、
当時のアメリカ社会を想像し、その中に二人の人物を置いてみると、
小説を読むような面白さを感じる。
たかが写真、されど写真、面白いなぁと思う。
2023/06/01(木) 14:40:51 |
写真にとり憑かれた人達
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ステーグリッツが、米国写真の原点か?となると、そうでもない。
写真が発明されると、直ちに米国に伝わり、ダゲレオタイプの写真館が林立し、好況を納めたという。
カルフォルニアで金が発見されるとゴールドラッシュが起きる。(1850年代)
その頃になると、より簡便な、湿式写真法になる。
金を掘り当てた人は、その金を換金し、故郷へ帰るとき、
お土産に、風景を撮った絵はがき(写真)を求めたという。
19世紀の後半になると(明治後半)、乾板写真の時代になり、更に写真を撮るのが簡単になる。
家の壁を飾るため、ヨーロッパの絵画を感じさせる「ピクトリアフォット」が求められるようになる。
米国(とくにニューヨーク)では、
絵画の目利きにかなった写真が、
ギャラリーに展示、販売されていた。
絵画の目利きの眼鏡にかなわないと、ギャラリーに展示されることはない。
それが ステーグリッツには、腹立たしいことだった。
写真には写真の表現がある。
絵画の奴隷ではない・・・・そんな思いだったのだろう。
絵画の目利き(ギャラリーのオーナー)に写真の選定を委ねるのではなく、
写真ギャラリーをつくり、写真家が独自に、写真を展示販売するフォットセッション(”291”)を立ち上げる。
この辺りが、日本と米国の写真にたいする向かい方の違いだろう。
ステーグリッツの周りには、賛同する人が集まって、一つのグループになっていく。
「ステーグリッツ」の名前を知ったのは、15年ほど前、散歩にカメラを持ち出した頃、
世界でどんな写真が撮られてきたのか知りたくて、
古本屋を彷徨い、Paul Getty MuseumのHandBook of the Photographs Collectionを購入したことから始まる。
写真の歴史、各写真の説明は簡潔にして要領を得たものだった。
かの国の写真に対するCuratorの質の高さを感じさせるものだった。
ステーグリッツは 裕福な家の長男として生まれる。
受け継いだ遺産のおかげで、お金に不自由することはなく、写真に没頭。
欠陥のない構図の確かな美しさを追求した。(初期のピクトリアフォット時代)
オリジナルプリントを「作品」として見て欲しいという気持ちが強く、
写真集をだすことには 後ろ向きだった。
彼の写真集が出版されたのは、没後のこと。
おそらくオキーフの監修のもと(1976年)、出版されたのだと推察する。(違うかも)
その後、1989年 もう一度 Dorothy Norman名で 出版された。
彼の作品の全てを網羅したものではないが、
この本のおかげで、どうにか、彼の創作の歴史をたどることができる。
彼の影響を受けた人は多い。
一緒にPhotosessionを立ち上げたSteichenの写真集の前書きには、
スティーグリッツとの出会いの場面が、生き生きと書き記されていた。
後にアメリカの有名な写真家なった、アンセル・アダムス、Paul Strandとの交友関係もあった。
1893年 結婚するが、離婚している。おそらく離婚は、1910年頃ではないだろうか、(情報が掴めない。)
1924年 Stieglitz 60歳、O'Keeffe 37歳の時 結婚しているが、
O'Keeffe、Stieglitzの本には、彼との出会いが語られている。
生活を共にしたのは 僅かに数年、
O'Keeffeは絵を描くため、ニューメキシコへ移動している。
Dorothyにしても、O'Keeffeにしても、
Stieglitzには1910年代に知り合っている。
二人とも、才能溢れる人のようだ。
オキーフは女流アブストラクト絵画の先駆者となり有名になったし、
Dorothyは、評論家として有名だった。
写真を撮っても(もともと写真家志望)上手だが、作品を公開することはなかったようだ。
O'Keeffeがニューメキシコへ去った後は、
Dorothyと生活を共にしていたようだ。
その横の繋がりと、米国の歴史の縦軸が絡み、Stieglitzの写真生活は続いていく。
20世紀は 発明の世紀。
時代は機械文明へと変化していく。
1893年、裕福な資産家の娘と結婚するが、彼女は「写真を」理解できない。
娘をもうけるが、やがて離婚する。
20世紀初頭は、好景気の時代。
1914年 第一次世界大戦が勃発すると、輸出は拡大、アメリカに莫大な富をもたらす。
株は高騰していく。
第一次世界大戦終了後も、まだヨーロッパの生産は少なかったので、
アメリカの景気は過熱し、遂に1929年(ステーグリッツ 65歳の時)大恐慌となる。
世界の歴史と重ねると、そこでもがき、創作していく写真家の姿も見えてくる気がする。
ステーグリッツのEquivalentsは、この世のChaosを表現したものだという。
数十年間、写真に人生をかけたステーグリッツの”いらだち”がEquivalentsとなって雲の写真になる。
Equivalentsは自分の心象を被写体に託して表現した心象写真と ひとくくりにしていいのだろうか?
それこそ、浅薄な幼稚ではないだろうか。
写真は 知れば知るほど 面白い。
絵画などのアート作品とは異なるけど、アート作品になり得ると思う。
2023/05/29(月) 19:10:30 |
写真にとり憑かれた人達
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物干しから妻の声がする。
登ると、綺麗な雲が朝の空に広がっていた。
慌てて、部屋に行き、カメラを手にする。
スティーグリッツの「雲」の写真を思い浮かべる。
彼はそれを"Eqivalent"と称していた。
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よほどの写真好きでなければ、
アルフレッド・スティーグリッツを知る人は少ないだろう。
アメリカでも、写真家というより、
女性抽象画家の先駆者 Georgia O'Keeffeの夫としての知名度が高い。
美術評論家であり、雑誌の編集者、個展の開催などを通じ、
オキーフをプロモート(売り出)した人という評価だろう。
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何が"Equivalent"(等価体、同等のもの)なのか、極めてわかりにくい。
等価体、同等という言葉を聞いたら、日本なら、
「あれ(雲の映像)は俺の気持ちそのもの」と理解してしまう。
心象風景を撮った写真家であろうと、判断しがち。
日本人にとって、心象写真とは、その人の心象風景を表現したものと思っている。
(なんの裏付けのある証拠/エビデンスも示さずに)
自分の撮った作品を前に、自己表現だと発言したり、
自己実現とニコニコと語る若い写真家もいた。
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生前、彼は写真集を出すことはなかった。
死後、著作権は最後の妻(もしかしたら、結婚はしていない)が持っていたようで、
1976年に彼の写真集が出版されている。(彼は1946年に死亡している)
Apetureシリーズの一冊として1997年復刻(?)された写真集を手に入れ、
その写真集で、雲の写真、数作品を見ていた。
そのタイトルは"Equivalents"。
"Equivalent" アメリカの人にしても 捉えがたい概念のようで、
写真集のカバーにも、
He is best known for his winter scenes in New York and Paris ,his luminous landscapes at Lake Georgia, his prostrate of Georgia O'Keeffe(二番目の妻) and Dorothy Norman(三番目の妻?), and his
elusive Equivalents .
と紹介されている。
アメリカ現代写真の原点に立つ人物で、
ニューヨーク5番街に作った小さなPhoto-session会場、”291”はその核になる場所となる。
ここに集まる写真家、あるいは、彼の編集するCamera Workを通じ、アメリカの現代写真は開花していく。
そののち 西部カルフォルニアにF64のグループができるが、そのメンバーは”291”の活動に触発された人が多い。
町で撮るスナップショットの”スナップ”という言葉も、スティーグリッツが最初に使ったという。
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晩年のアンセル・アダムスのインタービュー映像がYouTubeにアップされていた。(BBC?)
その中に、スティーグリッツとの思い出話も入っていた。
感じたものを大切に、そのものが語ってくれるものを、(君の言葉ではなく)素直に写真に撮る・・・
それが"Equivalent"。
"Equivalent"について、そんなことを口が酸っぱくなるほど言われたとアンセルアダムスは語っている。
そんな内容だったと思う。(もう一度確認したいけど・・・なかなかみつからない)
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写真集には "Equivalents"について、
彼の説明(概念化)がある。
拙い翻訳だが、内容は以下のようだと推察する。
「私の写真("Equivalents")は、(写真と訳すより光画のほうが適切だと思う)この世界のChaos(カオス)を撮ることにある。
それはとりもなおさず、世界のカオス(不条理と訳すべきか?)と私の関係を撮ることでもある。
私のプリント(作品)は、この世界の絶え間なく続く心の悩み(これがChaosらしい)と、
心の平静(equilibrium)を取り戻そうとする様子を描いている。
それは、心の平穏を取り戻そうとする永遠の戦いでもある。」
哲学的というか・・・わかりづらい。
equilibriumという言葉、
科学を学んだ人なら、equilibriumは学術用語で、
日本語では「平衡」と定義され、化学平衡、あるいは相平衡という概念で理解する。
心の平静さという 概念までは 広げない。
米国人は日常会話でも使うのか?とおもうが・・・・使っているのかも。
またこんなコメントも記載されていた。
「そのイメージが、私にとってどんな意味をもつのかは考慮せず、
私は単に私が見たようにイメージを作りたいのだ。
印画紙の焼き付けて写真になってから、それはEquivalentsとなり、私に迫ってくる。
そして、この(Equivalentsの)素晴らしさを考え始めるのだ。」
日本人がイメージする心象写真とは大分異なる。
日本は嘗てカメラ生産大国になったが、
作品としての写真大国にはなり得なかった。
いまカメラの中心はPhone-Camera(スマホ)に移っている。
その中心は中国か米国になっている。
写真に関しては、いつまでも ユーラシア大陸の東の隅にある辺境の国で有り続けるのだろう。
2023/05/26(金) 12:03:28 |
写真にとり憑かれた人達
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