5年程前から、毎年 中央公園の白木蓮の花を撮っている。
もういいだろうと思いながら、
夕刻、中央公園の脇を歩くと、
白木蓮の蕾が膨らみボーッと霞み、樹が明るくなっていた。

また、季節は巡ってきた。
思わず、手にしていたカメラで、白木蓮の樹(蕾)を、2カットほど撮影していた。

それから10日後、白木蓮の開花は始まっていた。
手にした、カメラには、ツアイスのビオゴン・レンズのクーロン、
旧ソ連邦で製造されたJupiter-12 35mm F:2.8をつけていた。
天気は快晴、雲は出ていない。
R2フィルター(赤フィルターで、おそらく600nm以下カットの光をカットする)をつけて、
空を暗く落とし、白い花弁をくっきり出そうとした。

一昨日(3月10日)の天気は曇り空だったが、開花の盛りは過ぎているかも・・・と思うと居てもたまらず、
Jupiter-11 135mm F:4(戦前のツアイスのContaxⅡ用ゾナー 135mm F:4のクーロンレンズ)をつけて 中央公園へ。
樹の根元には、既に花弁が散っていた。
クローズアップを撮ろうと、花に近づく。
手振れの危険から、シャッター速度は1/125秒以上とした。
絞りはできるだけ絞りたい所だが・・・空の明かりを考え、f:5.6が適正だろうと判断した。
最短距離1.5m近く、1.6m前後でフレーミングしピントを合わせた。
被写界深度は、かなり薄い、10cmもないと思う。

有効基線長53mmのNikon SP距離計の精度は高い。
ピントは、その中に収まっていた。
f:16あるいはf:22まで絞れたら、
もっとくっきりした白木蓮が撮れたと思う。
三脚に固定して低速シャッターを切るのが定石だが、
フレーミングの自由度を優先させ、
手持ち撮影に拘るなら、
強力なストロボを焚くか、
高感度フィルムを使用する、など選択肢はまだある。
(増感現像もありえるし・・・)
そんなこと考えながら、
写真を撮るのが、フィルム写真の楽しみの一つ。
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デジタルカメラになって、レンズから絞り環と距離環がなくなった。
これは、保守的な写真愛好家には衝撃的だったと思う。
距離目盛りも、絞り値もないデジタル用交換レンズ、これでレンズ?と違和感を覚えた。
レンズをコントロールする機能は写真表現の重要なポイント、
それをデジタルカメラ側に奪われてしまった。
使いたくないという気分だった。(今はSonyのNEX-5を使っているけど・・・)
勿論、便利になったフルオートのデジタルカメラでも、
基本的なカメラ機能の設定である、絞り優先、シャッター速度優先、露光レベルの変更、オートフォーカスを切っての距離合わせ、などは可能だが、可能と使うかは別問題だろう。
操作が煩雑になり、使う機会は少なくなる。
全てカメラ任せだと、被写界深度を気にすることはない。
機械式カメラだと、
シャッター速度、絞り、レンズの焦点距離、被写体までの距離は、重要な要素で、
常に、そのことを注意してフレーミングする。
デジタルカメラに慣れてしまうと、ボケは意識しても、
その元になる被写界深度という数字は意識しなくなるのだろう。
意識すると、絞りは重要な要素となる。
すると、露光レベルを合わせるためのシャッター速度にも意識は行く。

デジタルなら、自動でISO感度を変更し調整してくれるが、
フィルムの場合、一本のフィルムを撮りきるまで、ISO:感度は換えられない。
手振れを考え、被写体の動きを観察し、止めるか、流すか、判断し決める。

135mmの望遠レンズ(レンジファインダーカメラでは、これが限界だろう)の被写界深度は浅い。
距離を合わせ、絞り値を確認し、被写界深度の範囲を確認し、ボケ具合を思い描く。
それが、機械式カメラを使うルーティンになっている。
デジタルカメラは便利だが、便利さに慣れてしまい、デジタルに馴されているのではないか?
絞りも距離もカメラ任せ・・・主体は誰?、人間それともデジタルカメラ?
綺麗なデジタル写真を見るたびに、でも面白くない、金太郎飴のようだ と思ってしまう。
これは、小生の偏見かもしれない。偏見は難しい、「思い込み」は治しようがないから。
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- 2023/03/12(日) 16:22:28|
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この数年 季節になると木蓮の花を撮る。
撮り尽くした感があるが、
コロナとの戦争で、自宅待避の生活を強いられると、
いたたまれず、感染(流れ玉)の恐れの少ない近場を散歩して、木蓮を撮影していた。

R2フィルターをつけて空を暗く落としてみた。
ストロボを焚いたが、どうしてこんな写真になったのか・・・
この頃が木蓮の満開の時だった。

一眼レフを使った木蓮の接写は過去に行っている。
敢えてレンジファインダーカメラの最短距離で撮ってみた。
木蓮は散り始めていた。
東京の桜は満開を迎えている。
毎年、桜の花を撮っているが、今年はどうしたものか、ちょっと躊躇している。
「もう撮りようは無いし」と思ってしまう。
でも、夜になると、近所を徘徊、夜桜を撮ろうとしていた。
桜が散り、紫陽花の花が咲くことになったら、
コロナとの戦いがどう進むか、
ロシアのウクライナ侵略がどうなっていくのか、
おそらく、分ってくるのではないかと思っている。
写真フィルムは今外国、特にヨーロッパ、イギリスからの輸入に頼っている。
そのフィルムの供給が減っているらしく、
小生の使っているフィルムは殆ど入手できなくなっている。
こんな所にも戦争の影響があるのだろうか?
- 2022/03/29(火) 09:34:52|
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何を見るか、
それをどう見るかで
同じものでも違って見える。

公園の時計は2時35分を指していた。
太陽を背に撮影。
R72フィルターをつけ可視光を殆どシャットしている。
空は暗く落ち、木蓮の花が一層白く写っていた。

SEKORレンズには、赤外線補正の距離マークが付いている。
絞りをf:16に設定しているので、ピントはそれほど気にすることはないが、
補正マークを10mにして撮影。
等倍に拡大し、ピントを確認したが、
無限遠と想定できるレインボーブリッジもはっきりと写っていた。

カメラを振り、斜めからの光線で撮影。
太陽に近いほど空は明るく写る。
光の質、光の捉え方、フィルム、フィルター、暗室作業、プリント作業によって、写真表現は変化する。
何を見ているのか、どう捉えているのか、撮る人の考えが試されているようなもの。
明眼の人が見たら、撮る人の被写体に対する態度が見えてしまうのだろうなぁと思う。
写真は、その人の心象ではなく、その人の品性(品格)がでてくるものだと思う。
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事実を伝える映像(写真)が、
ある意図をもったプロパガンダ映像(写真)になることもある。
その意図を、見抜く眼が欲しい。
ウクライナ情勢を知りたいと思い、連日PCの前に座り、ネットをサーフィンする。
しかし、西側からみた情報に傾きやすい。
ロシアの戦力がどれほど消失したかの戦果と、
ウクライナの市民の被害様子の映像で出るが、断片的で、正確な数字はよく分らない。
これでは一方的、プロパガンダに乗っかったことになる。
正しさ(正当性)は、価値観による。
価値観を共有できればいいが、
他者に対する一方的な価値観の強要は紛争を生む。
「正しさ」を振り回すのは危険、云った瞬間、怪しさが漂う。
必要なのは事実の正確な確認だろう。
ロシアのサイトに入るが、ロシア語はできないので、情報を正確に取れない。
「選択範囲を日本語に翻訳」する機能を使うが、訳がときどき意味不明となる。
ロシアのグリップ力が低下すると、
ロシアの武力の助けを借りて民衆を抑えてきた紛争地で、
再び係争が激化するかもしれない。
原爆を持っていないウクライナにロシアは侵攻した。
米国もNATOもロシアの原爆を怖れ、ロシアとの直接対決はできないでいる。
それを見て、北朝鮮は、原爆の抑止力を確信したのだろう。
大陸間弾道ミサイルの発射実験を行った。
アメリカ本土全てに届くものだという。
ロシアの軍事サポートでなり立ったシリアは、このまま安定化するだろうか?
ミャンマーの民主化弾圧、
アフガン情勢、
フェーク・ニュースかもしれないが、
アゼルバイジャンがアルメニアに侵攻、アルメニアはロシアに助けを求めたという記事(フェーク?)も見た。
北方領土問題、尖閣を含めた台湾問題もある。
単なる「コップの嵐」にはとどまらない、大きな転換点になってしまった。
しかし、情報は表面的、その底流に何が潜んでいるのか、よく分らない。
おそらく、米国やイギリスの政府は、情報を掴まえているのだろうが、表に出てこない。
本当に重要なのは、目に見えるものではなく、その底に潜むもの。
その暗闇に灯を照らし、明らかにするのがサイエンス。
Politic Scienceがある、やはり米国かなぁ。
世界の、そして日本の戦いでもあるコロナとの戦争。
ほぼ制圧できたと蔓延防止措置が解除された。
しかし、解除にあたり、どのような防衛網を構築したから安心ですという説明はない。
ウクライナ情勢に埋もれ、たいしたことでないということか?

毎日、10名前後の人が東京では亡くなっている。
5波のときなら大騒ぎだろう。
毎日7000名ほどの人が感染している。
オリンピック期間中、選手村ではトータルで100万回のPCR検査をしたと云う。(日割りなら毎日5万回以上検査できた)
どんな理由で能力が消えたのか、よく分らない。
毎日検査するPCRの件数は12000件ほどにとどまっている。
陽性率は30%くらい。
陽性率が数パーセントなら、
毎日7000名の感染者という数字は、かなり実態に近いと判断できるが、
陽性率30%では、7000名前後という数字の信頼性は少ない。
入院者数が2000名程度でベットに空きがあるから大丈夫といいながら、
自宅で療養する人が40000名くらいいる。
自宅療養と入院治療調整中を合わせたら、9万名くらいの感染者がいる状況。
入院させない方針を立てれば、ベットに空きがでて、数字的には感染を抑えているということになる。
変だなぁと思う。
東京都の公開する「都内の最新感染動向」
大本営発表の、プロパガンダ(印象操作)になってはいまいか?
実態はどうなのか?
公開された統計が恣意的だと、作戦の失敗を隠していることにつながる。
(プーチンの判断ミスもここにあったと思う)
いまは、感染者減少傾向だが・・・・この統計には疑問が湧く。
コロナ軍の反転攻勢がないことを祈るのみ。
- 2022/03/27(日) 11:24:15|
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前景に植えられた木蓮を大きく画面に取り込み、
「花の盛りのごとき木蓮を」と、フレーミング(一種の印象操作だろう)してみたが、

注意して見れば、花の盛りを過ぎいることは明白だ。
ここでもちょっとした思い込みのミスを犯した。
Fomapan100フィルムを使っていると思っていたが、
実際に使ったのはAcros100フィルムだった。
現像タンクにフィルムを巻き入れ、現像液をタンクに満たしてから、そのミスに気づく。
フィルムには相反則不軌という現象がある。
一秒以上の長時間露光では、露光時間が長くなるほど、露光の補正倍率が変わっていく。
特にAcros100フィルムは、補正の倍率が極めて少ない優秀なフィルム。
Fomapan100と同じ現像時間では、現像オーバーになる恐れが大きい。
迷ったが、一度決めたことは曲げられない、規定の現像時間で現像した。
現像が少しオーバーになっても、作戦は完了できるだろうと 希望的観測が先行する。
しかし、結果は、明らかに現像オーバーの肉乗りのいいネガができていた。
これが第三者の依頼による撮影だったら、
間違えを受け入れ、メーカーが公表している相反則データと、
今までの現像ノートをひっくり返し、
そして、考え抜き、最適な現像条件に近づけよう工夫する。
しかし、依頼主は自分、
己の意志に従って現像するなら、
他人に文句を言われる筋合いではない。
無視すればいいだけだ。
この瞬間、判断ミスを棚上げし、現像していた。
心理状態は、プーチンの心理状態に近かったかもしれない。
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適正露光はf:16で5分だろう。
ISO:400のRollei赤外400と同じ程度の露光で充分だった。
Acros100 長時間露光で撮影してみて、その隠れた実力を再認識。
肉のりがいいので、白飽和した部分に銀粒子がでるかと思ったが、それは感じない。
優秀なAcross100フィルムに助けられ、夜の木蓮を撮影することができた。
でも、明眼の人なら、
撮影時 どんな工夫(細工)をしたか、
露光オーバ-の結果どうなったか、
感づいてしまうだろうなぁ。
そこが恥ずかしい。
- 2022/03/24(木) 17:07:54|
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満開の木蓮。
しかし、ちょっとしたミスがあった。

デジタルカメラなら、その場でチェックできる。
満足できるまでその場で撮り直せばいい。
でも、それができないのがフィルムカメラの欠点。
しかしその欠点こそ、現実を捉えることに繋がると感じている。
写真が、一瞬を記録するものなら、一期一会。
撮り直しして 見栄えする画像を作ることは、
プロが撮る広告写真なら当然のことだが、
プロパガンダ映像に繋がる行為。
ミスも受け入れて楽しむ、それが小生の撮り方。
バルブで撮影、シャッターは閉じたと思って、
マミヤプレスを三脚から外し、レンズを見るとャッターが開いていることに気づき、慌てて閉じた。
明るい街灯の光が、ネガの上に光の筋を記録していた。
プーチンの判断ミスがウクライナ侵略を起こす。
起こしてしまったミスは、元に戻ることはなく、
生じた新しい状況に対応し、次の行動が起きる。
因果の連続、そこに、またミス判断が重なるかもしれず、
どこまで行くのか、よく分らない。
ちょっとしたミスと、かたづけられない。
ロシアの侵略が始まった頃、
大国ロシアとの戦力差は大きい、
住民(国民)の損害(死亡)を考慮したら、
早く手を上げ停戦協定を結び、戦争を終結させるべきという論陣を張る評論家がいた。
あるいは、ウクライナとロシアの戦いだ。
どちらもどちら、好きに戦わせておけばいいという人も居た。(コップの嵐)
昔に戻し、もう一つの選択肢を試すことはできない。
ロシアとウクライナの歴史、今までの歴史から見たロシアの戦い方、
国民性、政治体制を知れば知るほど、二国間に戦い(コップの嵐)にとどまると思うと危険だし、
ロシアと停戦協定を結んだあとの、ロシアの行動を見ると、それも危険。
満州に残った日本人のシベリア抑留を、日本は記憶している。
- 2022/03/23(水) 10:24:17|
- 白木蓮
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