先日 東京ミッドタウンにある富士フィルムフォトサロンへ行った。
そこで開催されている「アンセル・アダムス」展を観るため。

1960年代の後半、あるいは70年代前半だったか、
展示会でアンセルアダムスのオリジナルプリントを見たことがある。
あまりの美しさに、そこで固まってしまった。
肩にはNikon Fがぶら下がっていた。
このカメラで、こんな写真撮れるはずもないと思った。
当時は、ブローニーフィルムのカメラから35mmフィルムのカメラに替え、
一コマ当たりのフィルム代を下げたところ。
富士の超微粒子フィルム Neopan Fを使うことで、
4つ切の伸ばしても、どうにか粒子の目立たない写真を焼き付けていた。
風景写真は・・・・とても素人に、若造に、手が出せるものではない。
それから、風景写真は 極力撮るのを避け、街でスナップするようになる。
フィルムもNeopan F から Tri-Xに換えていた。
トーンの豊かな写真が好きだ。
オリジナルプリントに会えるなら・・・・行くべきだろう。
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風景写真・自然を写すのは難しい。
シャッターを切り、いい風景写真をとったと小躍りしても、すぐに落胆する。
似た構図、似たトーン、似た色彩の風景写真は、既に誰かが撮っている。
それを超え、記憶に残るような作品はめったに撮れるものでもない。
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アンセル・アダムスがヨセミテで写真を撮るより早く、
湿式のコロジオンカメラで写真が撮られていたころ、
すでにヨセミテの風景写真は撮られている。

このイラストは、"History of Photography" by Peter Tunerから転載しました。
撮影したのは 写真史に名を残すマイブリッジ。
当時 湿式のカメラを操作するには化学の知識も必要。
高等教育を受けた人でないと扱えなかった。
そのコロジオンを調整し、硝子板に均一に塗布、
乾かない内にビューカメラにセットし、撮影。
すぐに携帯したテントの中で現像したのでしょう。

当時 アメリカ西海岸はゴールドラッシュに沸いていた。
多くの人でにぎわっている。
金を掘り当て、国に帰る人が、絵葉書を欲しがるだろうと、ヨセミテの風景を撮影、絵葉書として売り出す。
しかし、商売は、あまり上手くいかなかったようだ。
そのご 写真撮影技術を見込まれ、馬が疾走するとき、
4つの足が地を離れているか、着いているかの賭けの判定を
写真にできないか 問われ、連続撮影の方法を編み出す。
請け負った額の倍の費用がかかってしまい赤字になったが、
連続写真という新しい技術は好評で、展覧会を行い各地を回り、大もうけしたのこと。
いろいろな人に影響を与えたと思う。
ムービー(映画)の可能性を感じた発明家もいたと思う。
フランス印象派の画家ドガ(バレリーナの絵を得意とした)、イギリスの画家、フランシス・ベーコンに影響を与えたという。(Handbook of the photographs collection ;The J.Paul GETTY Museum) 。
1872年の撮影なので 歴史的には重要な作品だが、
美的な価値を感じ、心に残るのはアンセルアダムスの作品。
季節を待ち、光線の具合をまてば、マイブリッジが撮影したのと、
あるいはアンセルアダムスが見たのと、同じような光景が眼前に出現する。
それをカメラに収めれば、同じような写真を撮ることができる。
しかし、同じようでは「真似」にすぎない。
心に残る作品にはならない。
アンセルアダムスの作品を超える 更に優れたものを表現できているかにかかっている。
8×10インチの大型カメラを使い、モノトーンフィルムを使い 自分で現像する人はごくわずか。
ビューフィルムカメラに習熟し、現像をこなし、暗室で格闘する・・・・
それだけで 一生が終わってしまうかも・・・・
いまは分業、デジタルで撮影しても、それをプリントし作品にするのはカメラマンではない。
委託を受けたプリンターが写真家あるいはクライアントの要望を聞いて処理する。
もう、アンセルアダムスのような写真家は現れないのだろうなぁと思う。
今年綺麗に咲いた花は 来年も同じように咲く、2年後も、3年後も・・・
富士山の雄大な姿は、今年も来年も、一人の人の寿命が尽きるとも、変わらず雄大な姿を見せているだろう。
記録として撮影する必要性は薄い。
それでも、富士山/花を撮るのはどうしてだろう?
たとえ同じでも止められない・・・・麻薬的な魅力があるのかも。
あまりに沢山の富士山/花の写真があるので、印象に残る富士山/花の写真(映像)、小生の記憶の中にない。
まだ、アンセル・アダムスのオリジナルプリントを知らなかったころ 撮っていた風景写真です。


50年前、体力、気力、金力(これはなかったが・・・)
学割、鈍行、安い宿〔ユースホステルをよく利用した)で各地を旅行、
楽しい思い出である。
今見ると、よく撮ったなぁと思うけど、
50年後でも同じような写真が撮れるとしたら、
何をしていたのかという気持ちになる。
単に自分のための記録写真、
「昔 北海道を旅行し、こんな写真撮ったんだと」 知り合いに見せる程度のものだろう。
自然は今も変わらず、今 この場所に立っても 同じような写真が撮れるはず。
デジタルで鮮明に撮るか、フィルムで銀粒子のざらつきある写真にするかの差に過ぎない。
記憶に残る(アンセルアダムスのような)作品にはならないでしょう。
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- 2017/12/06(水) 17:54:11|
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書庫を探していたら、古いネガがでてきた。
先生の名を冠したクラス会の開催通知があったのは9月、
今回は少し沢山の人が集まるようだという。
ネガの束に、3回分のクラス会のネガが入っていた。
その中に、50年前の記念写真があった。

ネガをスキャナーで取り込みデジタル化、プリントする。
20台前半の懐かしい顔が現れる。
小学校を卒業しても、毎年 先生を囲み、ハイキングなどしていたが、
そのうち先生のお宅で、新年会を開くのが決まりのようになっていた。
この催しは、大学へ進学したものが卒業するまで続いた。
さすがに皆就職し、結婚となると 先生の家へ押しかけるわけにも行かず、
それからは 2,3年に一回のペースで、レストランで会食する(先生夫婦を招待)ようになる。
それも、いつまで続いたか・・・・

小生が幹事役で会場設定した1995年には、先生も出られたので、これが最後だったかもしれない。
前回のクラス会は3年前、六本木のレストランで行ったが、集まったのは12名。
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今年の7月「ビールでも飲まないか?」の誘いがあり、クラス会メンバー8名ほどが集まり、暑気払いした。
その席で、不定期だと、誰が幹事かわからなくなるという声がでる。(そう画策し、ビールでもと誘ったのだろう)
毎年開催し、そのつど次回の幹事を決めようということになった。
(小生は内心、賛成できなかったが・・・小生を幹事には選ばないだろうと胸算用、賛成していた。)
やはり幹事は、気の利く女性2人に決定していた。
すると 行動は早い。9月には案内の手紙と、返信用のはがきが届いた。

50年前使用したカメラ Nikon Fに Tri-Xフィルムをつめて持っていった。
当時 3回のクラス会で使用したフィルムは NeopanSSS、Neopan F、それにTri-Xの三種類。
現在入手できるフィルムはTri-Xのみ。
隔世の感がある。富士フィルムの白黒フィルムはアクロスのみとなってしまった。
Tri-Xは 価格が高くなったが、入手はまだ可能である。
50年前 フィルムはNeopanSSSを使用。
Nikkor 35mm F:2.8のレンズで、FP級のフラッシュバルブを発光させ 撮影している。
今回は、Tri-X フィルム、Nikkor 24mm F:2.8のレンズ、室内光のみ f:2.8/30秒の手持ち撮影した。
ネガフィルムは本棚の隅に箱にいれておけば、そのまま残り、画像を取り出すことできるが、
デジタル画像はどうだろう?ちょっとした電気ショックでデーターが読み出せなくなったりする。
CDやDVDに焼いて保存して、何年くらい保存できるものか?
バックアップをとり続ければいいのだろうが、個人で定期的にバックアップ保存するとなると限界がある。
画像のフォーマットが変化すると、読めなくなる可能性もある。
写真は記録。
記録して残すとなると なんとなくデジタルは頼りない。
- 2017/11/22(水) 18:07:32|
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嘗ては、大崎から目黒にかけて竹林が多く、とごえ(戸越)はタケノコ村とも呼ばれていたという。
60年近く前、小学校の社会科の授業で聞いた話だが、「タケノコ村」という先生の声が、不思議と耳の奥に残っている。
確かにその頃は斜面に竹林がところどころ生えていた。
しかし、今は全て住宅になっている。
先日、夕食にたけのこご飯が出てきた。
季節になったなぁ。
カメラを持って、筍の撮影に出かけていた。
大崎の公園に筍を発見したが、顔をのぞかせた段階で、まだ写真を撮るには早い。
目黒川をさかのぼり、五反田で筍を探したが・・・コンクリートで固められた町になっていた。

そういえば、石川光陽さんの写真に、五反田、目黒、池上など、池上線、目蒲線沿線の写真があったことを思い出す。
この場所を撮っていたと・・・一枚撮影。

家に帰り、石川光陽さんの写真を探す。
昭和11年の撮影。使用しているのはライカDⅢだから、エルマー50mm F:3.5だろう。

翌日、レンズを50mmに換えて散歩。光陽さんが立ったであろう場所を探し撮影してみた。
撮影場所、もう少し前かなぁ。
昭和30年頃、ここを母に連れられて歩いたことがある。
山手線の内側に白木屋デパート(現在は東急)があり、母はそこで買い物をし、小生をつれて帰宅するところだった。
今は大きなビルになっているが、角に中華まんじゅうを蒸かして販売する店があった。(光陽さんの写真で岡島洋装店に当たると思う) セイロ(蒸篭)から立ち上る水蒸気の白さがまぶしかった。欲しかったが、残念ながら買ってくれなかった。
昭和11年の光陽さんの写真と、平成27年のこの写真の間に、夥しいほどの写真があり、そのうちの一枚に蒸篭から白い蒸気をたち登らせる、あの店の写真もあるのだろう。
写真は現実のコピーに過ぎないが、立派な記録だと思う。
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筍の写真は・・・いま撮影中です。
- 2015/04/23(木) 11:47:22|
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メーカーのブースには、キャンペンガールと呼ぶべきなのだろう、スタイルのいい女性が、にこやかな笑顔を振りまき、カタログを配っていた。
その中の一人を、数名の男性が囲いデジタルカメラでその姿を追う。求めに応じポーズを付ける。ポートレート撮影会の呈をなしていた。
見るとあちこちで、同様な撮影が行われていた。
デジタルカメラは・・・持ってきたが、写す気にはならない。何か抵抗がある。
お散歩カメラにはならない・・・と気づく。
日本カメラ博物館の展示スペースが奥にあった。
そこに 懐かしいカメラが飾ってあった。係りの人に、撮影していいか?と尋ねると、快諾、どうぞどうぞ~~

スタートカメラ!!小生にとっては、写真の原点。このカメラから、始まっている。
「クリスマス」というのがあるのを知らなかった。暮れの12月、父親が嬉しそうな顔をしてクリスマスプレゼントだと言って、箱をくれる。その中にこのカメラが入っていた。
今思えば、朝鮮戦争が終わり、世の中が安定しだした頃だろう。
景気は上向き、占領軍とともにアメリカの文化がどっと入ってきた。
子供に、ものを買って与えることができる時代になったこと・・・父にとっては、誇らしくもうれしいことだったのだろう。
そして、父は猛烈に働いていた。

フィルムは高価で、親に買ってもらわないと無理。現像も親に頼んで近くにカメラ屋で行う。どのくらいの写真を撮ったか・・・記憶は定かではないが、奇跡的にネガが1本分(16枚撮り?)出てきた。普通の35mmフィルムを裏紙に巻き付けていたものだと分かった。
62年前の、小生のごく初期の作品ということになるのかなぁ。
遊び友達、家は向こう三軒両隣の関係。しかし、奇妙なことに同じ小学校ではない。
右の一人は三木小学校、左の二人は兄弟で、白金の小学校へ通っているとか。
撮影場所は・・・三木小学校か大崎中学校の校庭。大崎中は戦後の新設中学で、もう少し校庭が雑然としていた記憶が残る。三木小だろう・・・
この三人の消息、今となっては、知る由もない。住んでいた家は、今マンションとなっている。
今改めてこの写真をみると、玩具カメラといえ、意外としっかりと写っていることに驚かされる。
スタートカメラ、数年後にはフジペットに替わっていた。

フジペット、小学生の高学年になると、このカメラに替わった。おそらくクリスマスプレゼントだったのだろう。親が使うMamiya-6と同じ、ブローニーフィルムを使用する・・・なぜか誇らしい気がした。

フジペットで撮影したネガは、何本か残っていた。全て、スキャナーで取り込み、PCに保存したはずだが、探しても見つからない。ようやく、見つけたが、違うファイルに偶然紛れ込んでいたもの。去年ハードデスクがクラッシュしたとき消えてしまったのだろう。ネガはある。もう一度ネガを探し・・・PCに取り込まねば・・・・
昭和32年か33年の秋の遠足のとき撮ったもの。顔を見て、5名の名はすぐに出たが、右から2番目の野球帽をかぶった人が判然としない。野村君か村岡君か・・・
現在も居所を知って、連絡の着くのは4名。地元に残ったのは一名だけとなった。
去年のクラス会には、この中で2名参加している。次回はどうなることやら。
オリンパスペン! そうだ忘れていた。東京オリンピックの始まる前から、このカメラを使っている。記憶から抜け落ちているのは、その頃のネガと写真がそっくり紛失しているからだろう。箱に入れて保管していたが・・・それを廃棄してしまったのかも・・・・かろうじて残っていたネガは・・・

オリンピックが終了し4年、このころは既にNikonFを使っている。ペンはサブカメラ、記録用として使っていたのだろう。Tri-Xを使用。ハーフサイズなので、普通に構えると、縦フレームの写真となる。新潟の叔父さんの家に遊びに行ったときのスナップ写真。当時年齢は60歳くらいか。新潟の田舎で歯医者をしていた。
息子も歯医者になり、同じ場所で開業しているが、年齢は既に写真の叔父さんを超えている。20年近く会っていないが、年賀状の交換はしているので、まだ、互いに生きているということか。
オリンパスペンのカメラを家中探したが、カメラもどこかに消えていた。
写真は個人の記憶を呼び起こす契機になる。その記憶はあくまでも私的なもの。
しかし、そこから、個人をそぎ落とし一般化できれば、時代の記録となる。
時代の記録として写真を見たら、スタートカメラで撮影した一枚が、ベストだと思う。
やはり、これが小生の最初の作品だろう。
- 2015/02/20(金) 10:42:55|
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思い出の地、蓼科を再訪し、その変遷を知りたくて、昔の写真、ネガを調べていると、懐かしい顔に逢う。ほろ苦い記憶を思い出す。
蓼科湖で撮った集合写真には、中学時代、学校一の秀才の顔もあった。高校は当時日本一の進学校へ、そして、決まったように東大に進む。
それから10年ほどして、中学時代の恩師に合う。雑談していると、彼の話が出る。「あの時彼は安田講堂に居たんだよ。」そう70年安保・学園紛争の時のはなしになる。「うまい具合に、機動隊が突入する1週間前に、外に出ていたそうだ」恩師の顔が、ニコニコ笑っている。無事卒業し、中央官庁へ(当然のことながら、キャリアー組)入ったようだ。マークはされていなかったか??その後、彼とは音信不通になっている。今となっては、探しようもない。
1967年、あの頃が、転換点だったのかも。 文化大革命が始まったのは1960年半ば、それからの10年は、小生にとって熱い時代だった。その間の5年間、カメラを握っていた。
ネガを調べていくと、学園紛争の写真も出てくる。~~公開できないなぁ。
昨日まで教室で席を並べ学んでいた級友が、バリケードの内と外に分かれ、争っている写真があった。真理を追究すべき学問の府で、「ナンセンス」と他人の発言を封鎖する。単位を授ける権威の上あぐらしていた教授連は、その声に、なすすべもなく、普通のおっさんに戻っていた。人間の根源の醜さがでてくる。嫌な時代であり、面白い時代でもあったと思う。この10年間が日本の写真史を見ても、一番熱い時期ではなかったか?
写真に力があった。日本を代表する写真家も輩出した。
学園紛争の写真は載せたくない。友人の姿が写っていたり、小生の居た大学も分かってしまう。これは、個人のプライバシー、そっと取っておくつもりだ。
その頃撮った写真、これも今となっては懐かしい。

町を歩いていて、この踊る集団に出会う。たどたどしい英語で話しかけ、住所を聞き出す。恵比寿の住宅街の小さな一軒家を借りていた。今となっては、その場所、どこだったか皆目見当もつかない。数回通い、写真に収めている。撮っていいかと、面と向かって承諾を得た記憶は・・・・定かにはない。阿吽の呼吸のようなものか。
ルポルタージュ写真家になるという気は、さらさらない。ただ、面白いからと、家に上がり込み、撮影していただけ。時代の熱気がそうさせていたのだろう。
一切の寄付もしていない、却って、夕食(菜食主義)を御馳走になっている。スキムミルクと砂糖をたくさん使った料理だった。
できた写真は、何枚か伸ばし、渡しているので、それが寄付であり、料理へのお礼となったのだろう。
教団の名はKurishuna、町で見た瞬間ピンときていた。
高校時代の成績は、文系科目は全滅に近い。理数系はよかった。それでも、社会の先生とは馬があったのか、よく話をした。その先生が面白いから読めと勧めてくれたのが、宇井白寿氏の、「東洋人の思唯方法」 ドクター論文が、そのまま出版され、その筋の研究者、関心を持つ人のベストセラーになっていたようだ。高校の図書室にも置いてあった。
こいつ、理系だろう。受験勉強に関係ない本でも、こいつなら読むかも・・・と思い勧めてくれたのかもしれません。文系の生徒には勧めなかったでしょう。受験の妨げになります。
その先生も今は冥界を彷徨っている。聞き出す手段はありません。
「インド人の思唯方法」に、興味を覚え、図書館の本をあさり、宇井白寿の著したインド宗教の話を拾い読み。その中に、熱烈派として紹介されていたのがこのkurisyuna教でした。~~ェエ、それが日本にも布教で来ている。
熱い時代のカメラは、全ての設定を人間の手で行わなければならない純機械式カメラであった。露光計付も販売はされていたが、プロは使っていたか??
露光計が内蔵されAE化すると、露光の失敗から解放される。モータードライブ、自動焦点、ズームレンズ・・・便利になるほど、写真を撮ろうとする意欲は希薄になっていく。
純機械式カメラを手にしたプロは、人様に見せられる写真をものにするため、カメラを使いこなす努力を惜しまなかった。操作が難しいからこそ、余計に写真に入れ込み、意欲は頂点に達していたのだろう。アマチュアとの差を見せつけてやるという気概もあっただろう。テーマは眼前にいくらでも転がっていた。それが、あの10年間ではなかったか。
カメラが誰でも簡単に撮れるようになると、すごいなぁと思える写真家は、でなくなっている。皮肉なものだとおもう。
小生の写真への思い、あの時代の熱気が根底にある。
その熱気を感じたくて、古いカメラを手放せない。純機械式のカメラがそれを感じさせてくれる。相変わらず、使いこなすのは難しいが、それが楽しい。いい写真を撮るためには、ハードルは高めに設定したほうがいい。
あれから、44年、インド発生のこの踊る宗教、布教、うまくいっていないようです。
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ネットで検索したら、東京に協会が健在だそうです。
記事によれば、ベトナム戦争のときアメリカで見直されたそうです。
確かに、リーダーと思しき人が、アメリカ、ニューヨークに電話していました。
掛け終わったあと、ニコニコしていました。
「アメリカに電話?」と聞いたら。「そう」、と答えた、「あとでビルがくる。」(月末清算の)と肩をすぼめていました。
当時、国際電話は非常に高かった。 そんなことまで、覚えているものですね。
- 2014/09/27(土) 11:26:39|
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